「観察」と「実験」

子どもは観察によって心を理解するということが分かってきました。また、ゴプニックはそれと同時に「実験」を通じてでも人の心を研究すると言っています。それにおける実験を行ったのが、エド・トロニックです。トロニックは9ヶ月の赤ちゃんの目の前で母親が急に凍り付いたようにじっとして、無表情になる実験をおこないました。すると予想通り、赤ちゃんはおろおろし、泣きだすことまであります。ところがそれだけではありませんでした。赤ちゃんは一体どうしたのかを調べでもするように、母親に向かって、普段したことのない表現豊かな仕草をいろいろして見せたのです。別の実験では、大人の方が1歳児の真似をします。すると、動作をことごとく真似する大人の異様な振る舞いに気づいた1歳児も、先ほどと同じような違う種類の「実験」をしました。大人が本当に自分の動きを真似ているのか確かめるかのように、誇張したおかしな仕草をするのです。片手を不自然に不利、大人がそれを真似するかどうかを試します。赤ちゃんは、大人の無表情な顔、ものまね、どちらにも興味をひかれ、何が起きたのか知る手がかりを大人の反応から得ようとするのです。

 

赤ちゃんはそれだけ、周囲の環境において、観察するだけではなく、働きかけることも実は多くしていたということが実験からわかったようです。これは私たちの赤ちゃんは何もできないといった「白紙論」を見直す見方がここにあるように思います。実際、保育現場において、よく見学に来られる先生や保護者が口々に言うのが「赤ちゃんでもこんなことできるのですね」といった言葉でした。しかし、特別なことはしていませんと話すと「では、どうやったらこういったことができるのでしょうか」となります。私は子どもたちの様子を見ているとやはり観察におけるモデルを見るということがとても大きいように思います。これはゴプニックの説にもあったように「因果関係」を人を使うことで知るということにつながってくるのでしょうが、それほど、赤ちゃんは外の動きに敏感で、キョロキョロと情報を取り入れています。「泣く」という行為も一つはその原因を解明するために大人を使っているのかもしれません。そう考えると、赤ちゃんは非常に能動的な存在だと感じます。

 

次に、ゴプニックは子どもが他人の心を学ぶのに最も効果的な学習方法に言及しています。これまでの「観察」「実験」からも分かる通り、子どもが多くを学ぶのは周囲の人同士の交流や介入の観察です。周りの人がどのように働きかけ、どう操るかを見ていると、心理的な因果関係について豊富な情報を得ることができます。

 

例えば、兄弟姉妹を比べると、知能テストや口頭テストでは下の子の方が成績が悪い傾向がありますが、心の学習は逆に下の子の方が驚くほど早いようです。これはあくまで傾向ですが、上の子は学校の成績で測れるような知性、下の子は情緒的、社会的な知性が発達しやすいようです。また、どちらかと言えば、上の子は物事を一途に追求し、下の子は仲介役になろうとする傾向もあるようです。兄や姉は両親のやりとりをするのを観察することが、心の学習に大いに役立つのかもしれません。そして、下の子はマキャベリ的知性、つまり他を欺く力を実地で見聞する機会に恵まれていると言えるのです。

 

確かにこういった側面はあるかもしれません。私も兄の様子を伺いながら、我ながらずるがしこかった幼少期であったと思います。このように、身近にいる人は子どもたちにとって、様々な刺激となり、心の学習にも役に立ちます。また、これは今の時代の子ども社会の少なさにも同時に問題視されるものではないでしょうか。今の時代核家族が増えています。また、地域でのコミュニティも昔ほど活発ではありません。ということは、こういった関係性や学びの場は乳幼児施設でしかできないのかもしれません。つまり、乳児からの保育は何も預かることだけではなく、心の学習も含め、他と自分とを学ぶ環境でもあるのです。もちろん、母子関係や愛着というものあるので、それほど無理をさせることもできません。しかし、子どもの環境において、他と関わることが少なくなっている昨今で、乳幼児施設の重要性はより考えられるべきではないかとおもいます。