記憶と内部意識

赤ちゃんの意識は周りを照らすように周囲に向けられているということをこれまで紹介してきました。それと同時に意識には外の世界に対するものと、心の中に向かうものがあります。心の内部の意識は、過去の記憶や未来への記憶、こだわり、空想などに左右され、過去の情景と未来の間を、まるでタイムトラベラーのように行き来します。これを「内語」と呼ばれます。頭の中で独り言を言うのもこういったことです。

 

このような意識の流れは、自己同一性の感覚と密接な関わりをもつと言います。つまり、自分の体験は、自分に起こることということです。哲学者ルネ・デカルトは、人が確実に知りえるのは内的体験だけだと考えました。つまり、「我思う、ゆえに我あり」とありますが、「我」とは誰のことを指しているのでしょうか。この「我」は内なる観察者として、自分の人生のステージを最前線から見つめるものであり、過去の記憶と未来の希望を統合する不変の自我です。未来を計画し、その計画から利益を受ける者です。つまり、「我」です。乳幼児にこのような内部意識があるのでしょうか。大人と同じような意識の流れがあって、内なる観察者のような司令塔はいるのでしょうか。

 

注意が外部意識と密接に関係しているのに対し、記憶は内部意識と密接な関わりをもちます。心理学者は記憶をいくつかに分類します。まず、一つ目は現在の行動に影響を及ぼす過去の体験です。これはウミウシのような単純な生物もこの種の記憶をもつと言われています。また、「パブロフの犬」が、ある音が聞こえたら電気ショックが与えられたことを記憶したのも、同様の仕組みです。2つ目は、それまでの人生で蓄積された知識があります。たとえば、パリはフランスの首都で、キャットはCATと綴るなど、いつこれらの知識を得たか覚えていないし、体験したわけでもありません。パリはフランスの首都という知識があるだけです。こういった無意識的な記憶に対し、自分の記憶を自分のもの、自分の人生を連続した物語として受け止める意識体験もあって、心理学者はこれをエピソード記憶と呼びます。そして、このエピソード記憶のうち、自分自身の体験に関わるものを自伝的記憶と言います。

 

記憶はそれに関わる脳の部分も、記憶のタイプごとに違います。ある種の脳損傷を受けた人は、新しい情報は学習できてもエピソード記憶をつくれません。有名な事例に、若い頃てんかん治療の手術を受けたH・Mという男性の話があります。手術で海馬を破壊された彼は、新しい技能の習得はでき、時には新しい事実を覚えることもできましたが、エピソード記憶は、手術後はもう作られることはありませんでした。そのため、彼は主治医に会うたびに自己紹介をしたのです。なぜなら、前に会った記憶がないからです。鏡を見るたびにぎょっとして、自分は27歳の男性だという記憶と、目の前の老けた顔の折り合いを付けなければいけないのです。H・Mの意識ははっきりしていたのに、その中身は正常な意識と非常に異なるものでした。新しい出来事も瞬時に忘れてしまいます。過ぎたことをどんどん忘れてしまうのです。