記憶の因果関係②

乳幼児がどのようにして現在の自分が過去や未来の自分と関係するのかを調べた実験の中で、ダニー・ポヴェネリが行った研究は幼児の成長記録をビデオで納めたものを使ったものでした。この実験では、子どもと一緒に遊ぶ大人が、1歳半の赤ちゃんの鏡の実験のように、こっそりとその子のおでこにシールを貼り、その後すぐにこの様子を映したビデオをその子どもに見せるというものでした。

 

すると、5歳の子は、ビデオに写ったシールに驚き、あわてて自分のおでこを触り、シールがないか確かめます。ビデオに写った過去の自分と自分の現在を同じ一つのものとして認識できているからです。ところが3歳児は同じように撮影したビデオを見ても平気です。鏡の中の自分は認識できますが、ビデオに写った過去の自分と現在の自分とがひとつながりの自分として認識できていないのです。しかし、過去の自分のおでこにシールがついていることには気づきます。ところが、そのことが現在の自分にもつながっているということには結びつかないようなのです。5分前に貼られたばかりのシールが、今もおでこについているという可能性に至らないのです。

 

また、年齢による違いがさらに極まっていたのが、3歳児がビデオの中の子どもを自分の名前で呼ぶのに対し、4歳児は「僕」など一人称を使ったのです。たとえば、3歳児のジョニーは「あれ、ジョニーのおでこにシールがついているよ」というばかりで、自分のおでこを触ろうとはしません。一方、4歳児は「あれ、僕のおでこにシールがついている」というなり、おでこのシールをはがそうとしました。3歳児は、ビデオの中の子が少し前の自分だと分かるのに、それを今の自分につなげるということができなかったのです。

 

これらの実験から心理学者の多くは、赤ちゃんや幼稚園児には年長の子や大人のようなエピソード記憶がないと考えました。しかし、これまでの実験をもとに考えると、乳幼児は自伝的記憶はなくても、エピソード記憶はあるということは分かります。手がかりを与えれば過去の出来事を思い出すといったように、過去の出来事を詳細に記憶しています。ただ、それを時系列に並べれないだけです。そして、なぜそれを知ったのか、知った時どう思ったのかを思い出すことができません。直接知った出来事を間接的に知った出来事より重視するということもありません。

 

これをゴプニックは「乳幼児期の心の中には、過去と現在の心をつなぐ『内なる自伝作家』、ただ一つの自我がない」と言います。ついさっきまで、箱には鉛筆が入っていると思っていた「僕」、お腹いっぱいになる前はクラッカーを欲しがった「僕」。ビデオに撮られたときおでこにシールを付けていた「わたし」を実感できていないというのです。

 

ビデオの様子は日本ではどういった表現になるのか少し気になりますが、これまでの実験を通しても、赤ちゃんから乳幼児期においては、過去に自分が体験した記憶といったものは赤ちゃんでもあるということが分かります。しかし、まだ「自我」というものが成立していないことから、記憶における「自分」というものが確立されていなかったり、自分が相手とは違う観念を持っていないという「誤信念」といった考え方がまだ出てきてしまうのだろうと思います。まだまだ、こういった記憶においては、解釈が難しいですね。自分自身ももう少し整理してみていかなければいけないと思います。