「遊び」をするために

保育において、何が重要視されるべきなのでしょうか。よく「遊びが重要」と言われますが、それは自由遊びのことを言っているのでしょうか。人によっては制作活動まで遊びと捉える人がいます。保育の本質はどういったところにあるのかを考えていくと、その大人が設定する活動と子ども主体の活動とは区別されます。実際、自園においても、保護者からもっと大人が子供に教える活動を増やしてほしいと言われることがあります。このことはいつも疑問に思います。「遊びの重要性」を話しながらも、画一的な「お勉強スタイル」の活動を求められ、とても矛盾を感じます。それは保護者にとっても、保育者も教育や保育というもののスタイルが学校からきているからなのかもしれません。結果、保育所や幼稚園などでの多くの「遊び」が「○○はこうやって遊ぶ」というような遊びのようにはパターン化やマニュアル化されることが多くあります。しかし、子どもたちを見ていると必ずしも、このパターンにはまった遊びをするのかというとそうではありません。

 

こういったことについて小西氏は砂場を例に挙げて、保育者がパターン化やマニュアル化することを防がなければいけないと言っています。そして、大人が思い描いた遊びに対して、「その面白さが伝わらない可能性があるということも知っておくべき」と言ってます。

 

小西氏は「砂場遊びは、造形と破壊の楽しさ、仲間と遊ぶ楽しさを与えてくれる大切な遊びです。昔は雨が降ると、家の周りが泥でぬかるみ、子どもたちは服を汚しながら泥だらけになって遊んだ」と話しています。そして、「道が完璧に舗装され、緑が大切だからと植樹する時代の子どもたちに『ほら、砂場に水を入れて泥遊びをすると楽しいでしょう。これが自然だよ』といっても、子どもの目には『不自然で気持ちが悪いもの』と映るかもしれないのです。」と言っています。これは砂場遊びだけに限らず、保育所の設定保育や行事についても、設定当初の目的が形骸化してしまうことがあるのです。そのため、保育者は「どうすれば、子どもたちが私の設定した遊びや行事に飛びつくのか」と腐心します。しかし、それは「指導者が管理する遊び」だと小西氏は言います。そのため、見方を変える必要があります。

 

つまり、砂場の遊びのねらいが、「造形と破壊の面白さ」「仲間と遊ぶ楽しさ」なら、遊びのかたちが変化するかもしれませんし、他の遊びを発見するかもしれないのです。何より大切なのが「指導者がしてほしい遊び」ではなく「その遊びを通じて子どもたちに何をまなんでほしいか」を考えることではないでしょうかと小西氏は言っています。

 

私も全くその通りだと思います。大切なのは「活動をすること」や「その成果」ではなく、活動をしたことで「学んだこと」や「その過程」であると思っています。いつの間にか「手段」が「目的」になっているのではないかと思うのです。一体何のために行っているのか、ただ、「今までそうだったから」の繰り返しでは、子どもにとっては意味のないものになってしまいます。子どもたちは時代によっても変わりますし、どの時代であろうと、子どもは十人十色です。それを理解して、それぞれにあった環境を保障することが何よりも重要なのだろうと考えています。だから、保育所保育指針や保育教育要領には「指導」についてよりも「環境を通して」の内容の方が重視されているのでしょうね。