英才教育の盲点

子どもの能力というものはそもそもどこから来るのでしょうか。この議論は様々言われています。遺伝的に受け継がれてきたものとして捉える「生得説」と後天的な環境因子によって培われる「学習説」といった議論は科学者の間でも長年議論の対象になっています。このことにおいて、狼に育てられた子どもを育てる経験をしたシング牧師は人間の「遺伝」と「環境」の重要さを認識する体験となりました。もし、人間が「遺伝」によって人生のすべてが決まるというのであれば、社会的向上のための努力への意義は薄れるだろうと言っています。

 

今日においては「生得説」の強調は人間の可能性に限界を加えるという側面を持つからか、「学習説」が優位に語られているように小西氏は感じると言っています。イギリスの哲学者、ジョン・ロックは、タブラ・ラサと呼ばれる「人間は生まれたときは白紙の状態である。G学習や体験によって知識は得られる」という人間観を提唱し、早期教育はこの考えを全面的に支持しています。しかし、小西氏はこのことについて「これは、人間発達の一つの側面を示しているにすぎません」と言っています。

 

そもそも、「乳幼児期から頑張れば、優秀な人間に育つ」ということ自体、正しいのでしょうか。小西氏は「学習説」は人間の多くの可能性を期待させてくれるものではあるが、「誰でもそうなのか」というとそれは一種の「幻想」ではないかと思うと言っています。

 

たとえば、前に紹介した澤口氏は、親が子どもを優秀なスポーツ選手に育てたいのなら、イチロー選手の父親の教育方針は非常に参考になると言っています。イチロー選手は乳幼児期から野球の英才教育を受けたことがその後のキャリアに大きな影響を与えたというのです。しかし、この見解は、乳幼児教育でも、教育さえすれば必ず効果が上がるという「臨界期」への誤解を招く恐れがあるのです。

 

この見解は、とても考えさせられます。確かにイチロー選手のように幼いころから子どもに野球の英才教育を施せば、第2のイチローが生まれるかもしれないという可能性は否定できません。ただ、イチロー選手の父親のようなお父さんはほかにもたくさんいたはずです。何もイチローだけが野球の英才教育を行い、イチロー選手が誕生したわけではないのです。日本中に数万人ものイチロー親子のような方はいただろうというのです。つまり、これはイチロー選手の教育子言うか以前に、本人の生得的な素質があったことも無視できないのです。このことを無視して、一つのことに的を絞った極端な教育は、他の知性とのバランスを崩す可能性があるのです。さらに、途中で挫折した場合、其れしかしていない場合、親子共に大きいであることが予想できます。ほとんど一つのことしかやってこなかった子どもは、その後、何を拠り所にして生きていけばいいのかを見失ってしまう可能性があるのです。

 

小西氏は子どもへの期待を捨てるというのではなく、生得的な要素もうまく利用していかなければいけないと言います。そうすることで人間の成長に何かしら恩恵を与えてくれるものというのです。

 

保育をしていても、活動を見ていると「去年もそうしていたから」という言葉を聞くこともあり、それを聞いたときに「今年と去年の子どもは違うのに」と感じるときがあります。なにか意図があるのであればいいのですが、ただ、繰り返すだけの保育にどういった意味があるのかと思うことがあるのです。「こうすればこうなる」というのは幻想であり、子どもたち、それぞれは違うということにあまり視点が置かれていない現状が多々あります。こういった偏った知識に「早期教育の危険」というものはあるのかもしれないですね。いったい、それは誰のためなのかということをもう少し考える必要があるのかもしれません。