「やればできる」の誤解

小西氏は早期教育について「やればできる」という価値観には疑問があると言っています。その理由を3つ挙げています。その一つ目は「やればできる」が誰にでも当てはまるものとは思えないこと。2つ目は「やればできる」という考え方は、親が押し付けるものではなく、私たちが自らの体験で獲得するものと考えるため。そして、最後の3つ目は「できる」「できない」で子どもを振り分けることの影響と言っています。

 

確かに「やればできる」という言葉自体に本人の意図というよりも、人から押し付けられた価値観を感じます。その主語が自分であれば、経験談からの可能性を感じるのですが、他者からの押し付けであれば、これはかなり無責任な言葉であるかもしれません。小西氏はこういった早期教育の価値観について、「早期教育の価値観は、他人よりも少しでも抜きんでることを良しとするものです。人間の幸福を身分獲得やステータス、学歴社会における勝利に価値を置いたものです」と言っています。ある意味で、この早期教育というものは子どもの親が自らの社会に対するコンプレックスを子どもに背負わせている結果なのかもしれません。このことは我々大人はもっと意識しなければいけないことなのかもしれません。

 

小西氏は続けて、こういった早期教育は「できる子」と「できない子」といった悪い偏見を生むことにつながりかねないと言っています。「できない子」を社会から締め出し、子どもの失敗を認めない窮屈な社会を作りだしているだけでないでしょうかというのです。今の時代、学校の成績で人の優劣を見られることが多いです。社会に出るとそうではないことが最近でこそ少なくなってきましたが、特に学生時代では未だ成績というのはかなりのウェイトで、「頭がいい」かどうかを判断する要素であります。結果、学生時代のある意味でのレッテルによって、ドロップアウトしてしまう人や窮屈さを感じる人がいるように思いますし、自分自身も「成績や偏差値による優劣」というものを感じていなかったかというと「No」とは言い切れない部分があります。

 

小西氏はこういったことを踏まえ、「やってもできないボーダーライン」と向き合うことも、大事な教育感だと思うと言っています。そして、「やればできる」と信じて疑ないことだけが、子どもにとっての唯一の幸せかどうか、立ち止まって考えてはどうかと言っています。そして、もともと子どもは自ら積極的に働きかけるという力を持っていると言います。この視点は保育をするものとしても非常に感銘を受ける言葉です。保育をするうえで子どもの「成長や可能性を信じる」ということは大切なことのように思います。その選択肢は大人が主体としてあるのではなく、子どもの人生としてあくまで主体は子どもにあるのです。小西氏は「乳幼児期の習い事や教材は、あくまでも遊び感覚で、親子のコミュニケーションの一つとして、体験を共有するくらいでよいのではないでしょうか」と言っています。そして、「『あなたの得意分野をゆっくりと探そう。これをやってもできなかったけど、他のものがあるよ』とおおらかな気持ちで子どもの成長を見守るほうが良いように思う」とつづっています。それくらいの気持ちで子どもの成長を見ていってあげるほうが、大人や親にとっても、子どもにとっても、幸せになる方法でもあるように感じます。