9月2020

言葉の影響力

クリスティーン氏はクリケットチームを対象にした調査で、チーム内の選手のひとりが幸福な気分でいると、それがチームメイトに影響するという結果が得られていると言っています。クリスティーン氏は「チームメイトの多くが幸福になれば、当然チーム全体の成績も向上するのです。そして、この場合の「幸福感」には必ずしも、関わる人たちの間の深い、個人的な人間関係は必要なく、頻繁に顔を合わせ、表面的な付き合いをしている人たちとの関わり方次第で、幸福感が大きく変わるのです。しかし、このことは良いことだけではなく、悪い態度も、その影響は全く同じように広がるのです。ちょっとした優しさ、ちょっとした無礼が付き合いの中にあると、その人たちが属する組織、集団の中にさざ波のように広がっていくのです。同じネットワーク内にいる人ならば、その態度を取った人に直接かかわらない人たちも影響を受けるのです。」と言っています。これこそが、リーダーとなる人が組織の風土や文化を作るということにつながっている要因なのでしょう。

 

この影響というのは脳の部分の活動によるものだとクリスティーン氏は「脳のある部分が活動をすると、神経細胞のネットワークを通じ、その活動の影響は脳内の別の部分に広がる。」と言っています。そして、「以前に、直接、あるいは間接的に見聞きした無礼な行動の記憶と結びついた部分が活性化される。そうなると、通常よりも他人の無礼さに対する感受性が鋭くなる。脳の状態がこのように変化すれば、物事の判断や意思決定に必ず影響がおよぶ。通常とは違う判断、意志決定をするようになるということだ」よく言う「鼻につく」というのはこういった脳内のメカニズムに影響があるからなのでしょう。一度ついた印象を払拭するのはなかなかに難しいことです。

 

ここでクリスティーン氏は面白い実験を紹介しています。エリザベス・ロフタスとジョンパーマーが1970年代に行った実験です。この実験では被験者をグループ分けをし、自動車の衝突実験の映像を見せます。そして、その車の速度がどれくらいと思うのかを尋ねる実験です。そこでは映像と尋ねることは一緒ですが、質問に使う言葉をグループごとに変えました。一つのグループは「車が『ぶつかった』時、速度はどのくらいだったか」と尋ねます。ほかのグループには「ぶつかった」ところを「激突した」「衝突して大破した」などに変えて諮問しました。すると、予想通り、強い言葉を使って質問をされた被験者は、そうではない被験者より、車の速度を高く言うという傾向が見られたのです。つまり、強い言葉が使われると、人は無意識に車の速度を高めて、その言葉と調和するようにするという仮説が立てたのです。どのように言葉に触れたかが状況判断に影響を与えているということです。

 

これは保育においても、組織論においても同様に言えることです。人に対する口調によって、その人の状況判断に影響を与えてしまうのです。クリスティーン氏は「無礼な態度を見た直後に、そうではない場合に比べ、同じ態度を見ても、無礼と感じやすくなる可能性があるのです。無礼な態度を体験すると、無礼な態度への感受性がより高くなるのである。その人が元来、敏感な人かどうかは関係ない。直前に無礼な態度を見たことで、無礼な態度により注意が向くようになっているだけである。」

 

以前、担当制のクラスで保育をしていたときに、そのクラスカラーが先生によって違うということがありました。それは子どもたちにとってリーダーとなる担任の先生における言動ややり取りが子どもたちに一つの価値観としての「ものさし」となっていたのだろうとこの内容を見て思います。たった一つの言葉、たった一つの関わりにより、そこでの環境や状況は変わってくるのであり、リーダーはそれだけ影響力と意識が求められることになるのだろうことが分かります。

礼節と無礼

クリスティーン氏は「礼節」を持つことは組織に力を与え、仕事の効率や成績が上がると言っています。では、逆に「無礼」な人が多いとどうなるというのでしょうか。これについてクリスティーン氏は「職場で誰かに無礼な態度を取られていると感じた人は、例えば次のような行為に出ることが分かった」と言っています。これは驚きの内容でした。①48%の人が、仕事に欠ける労力を意図的に減らす。 ②47%の人が、仕事にかける時間を意図的に減らす。 ③38%の人が、仕事の質を意図的に減らす。 といったように、職場環境によっては、これだけの悪影響が出るというのです。

 

私は常々、職場における雰囲気や風土によって、人の仕事への向き合い方が変わると思っています。そして、そのことに対して、影響力を持つのが「リーダー」でもあると思っています。どうやら「無礼」ではうまく集団が影響し合うことはできないのでしょう。

 

では、礼節のある人とはどういった人なのでしょうか。これについて7万5000人以上を対象とした国際的な調査では、優れたリーダーとみなされている人の多くが、他人から「思いやりがある」「協力的」「公平」という評価をされていると解ったそうです。どうやら、礼節とはこういったところから見えてきます。そして、礼節ある人は発想、情報、人をつなぐ役割を果たすことができるとも言っています。

 

「リーダーがチームのメンバーに丁重な態度で公平に接すると、メンバーが個人としても、チーム全体としても、高い業績を上げることが分かった。リーダーが礼節があることで、創造性は高まり、誰かが何かミスをしてもそれが早く見つかること、そして、誰もが自分の意志で率先して行動を起こすこと、メンバーの精神的な消耗が少ないことがいえる」と言ってます。そして、「他人を丁重に扱っていれば、その人の助けを得られる可能性は高くなる」というのです。

 

逆に失敗するリーダーは無神経で、人を不快にさせる、弱いものいじめをするという共通の性質があると言われるそうです。また、その次に多いのがよそよそしく、傲慢であるといった性質が続きます。そうすると権力があれば人はついてくるが、無神経で、敬意の無い態度で接していると、特に重要な場面で部下は助けになってはくれないでしょうし、情報の共有を渋るかもしれない、できるはずの努力を怠り、使えるはずの資源を使わない可能性があるというのです。

 

それでは、なかなか、うまくチームは動いていきません。長い間私は、リーダーに必要な資質は強い理念であり、誇りや志が何よりも大切なのであろうと思っていました。しかし、それだけではいけないのでしょう。こういったように礼節や無礼な態度で、人と関わるうえで必要になるのです。ある意味でこういったことが自然とできることが「カリスマ」なのかもしれません。しかし、こういったことを踏まえ、自分を変えていける原動力になるのは、思いであり、理念や志なのだろうと思います。そのどちらも、持ち合わせることで、組織はよりよくなっていく力を持つのだと思います。

リーダーシップ

組織をまとめていく中で、人を使うことの難しさを感じることがあります。それは子どもにとっても同じことです。保育においても、子どもと大人の相性はあります。家族でも相性はあるように、人との関わりの中で、どう付き合っていくのかというのは非常に大きな問題であるのだろうと思うのです。

 

以前、「リーダーシップ」について話をする機会がありました。組織においても、リーダーシップをとることは大切なことです。そして、リーダーシップ論を考えていくと、保育において子どもとの関わり方は、リーダーシップ論に近いものを感じます。

 

クリスティーン・ポラス「Think CIVILITY 礼儀の正しさこそ、最強の生存戦略である」を今読んでいますが、そこには「リーダーは自分の欠点をよく認識し、また、自分の言動が他人にどう影響するかも自覚していなくてはならない。周囲から見て近づきやすく、また現実的にものが見られる人間であることもだいじだ」と言っています。リーダーはその言動をしっかりと考えなければいけないというのです。そして、その発言が人にどのように受け止められ、どういった影響を与えるのかを自覚していなければいけないというのです。組織におけるリーダーにおいてもこういった資質は必要です。そして、それはその組織において、風土であり、文化を作ることになります。リーダーの言動は他に影響を及ぼすのです。

 

では、これは保育ではどうでしょうか。やはり同じことが言えるのではないでしょうか。子どもにやさしくなかったり、高圧的な態度を取ると、子どもも顔色を伺ったり、子どもそのもののありようはどんどん無くなっていきます。また、子どもの情動的なものにも影響がでるかもしれません。

 

また、クリスティーン氏は「マキャベリズムの意見に賛成し、礼節が大事だと思わない人は、皆を丁重に扱ったら、自分の権威をもはや尊重しなくなるのではないかと恐れる」と言っています。実際、自分自身もそれが該当するような意識を持つときがあります。しかし、ある実験で、ある教授を選ぶときに、礼節ある人の方が有利なっているということが分かりました。能力は優れているが、気難しく態度は横柄という人よりも、能力がまずまずで礼節ある態度の人が選ばれることの方が多いのです。なかには能力は高く、横柄で気難しい人が教授になることもあります。しかし、その場合、その人はそれだけ「仕事ができた」だけであり、礼節が備わっていれば、無礼でなければ、より成功していたのではないかとクリスティーンは言います。

 

組織を作っていく中で、リーダーシップというのは非常に大切な心持であり、スキルであるとも思っています。しかし、よくみていくと、それは組織だけではなく、保育においても、同様に共通するスキルであるということが見えてきました。続けて読み解いていきたいと思います。

ドイツの保育とコロナウィルス

これまでも紹介した通り、ドイツではオープン園を導入する保育施設が多くなってきています。しかし、現在、今世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルスによって、保育形態も変わらざるを得ない状況になっているそうです。

 

ドイツでは2月にイタリアで発症したことを受け、3月初めには国境を閉鎖したそうです。そして、都市閉鎖(ロックダウン)になり、幼稚園などすべて閉鎖されるという事態になりました。しかし、実際のところは、子どもは来なくても職員は掃除をしにきたり、作業を市に来たりすることで出勤はしていたようです。しかし、そのうち、園での作業はなくなったことと、1.5mのソーシャルディスタンスを確保するためには会議もできないということで、ホームオフィス(日本で言うテレワーク)にし、順番で少人数の勤務になります。どこの国でも行われることは同じですね。そして、それは1ヶ月ほど続いたそうです。

 

その後、4月からインフラ関係の子どもから受け入れるという措置により、保育が徐々に再開され始めます。5月にはその年度で卒園する年長児だけ登園できるようになり、6月にはロックダウンも解かれることになりました。

 

こういった状況下において、オープン園の保育方法は後退していくことになります。これまでは、子どもたちが自由に園内を動くことができるというようにクラスがなかったのですが、新型コロナウィルスが起きてからはクラス別に変わります。50人在籍していた子どもたちは、16人~17人の3クラスの編成になりました。幼稚園と学童の行き来もできなくなり、初めは園庭も3等分にするという話まであったそうですが、それはなかなか難しく、外では全員で遊ぶということになります。ビュッフェ形式の食事の提供も無くなっているそうです。しかし、マスクに関しては表情が見えなくなるということで、保育者も子どもも園内ではマスクをつけるという措置は取っていないそうです。環境はこれまで、さまざまな場所にあったスペースを各保育室にコーナー化することになったそうです。

 

しかし、ネガティブな部分だけではなく、異年齢での少人数でのクラスは落ち着いているそうです。というのも、クラス分けは子ども同士相性のいい子、職員間も相性のいい人同士で分けたことで結果として、落ち付くことになったといいます。今後は新型コロナウィルスが落ち着くまではクラス制になるようですが、落ち着いたらもとのオープン保育に戻っていくのではないかとベルガー氏は言います。

 

新型コロナウィルスは日本に限らず、世界中で起きていますが、それにおける保育園や幼稚園の対応はやはり似ています。ドイツでは2週間スパンで新しい対応が報告され、それをガイドラインに変わっていくようです。かなりスピード感がありますね。

変化と気づき

オープン園にするにあたっては3年を通して終日研修が4日間、閉園後の2時間研修が15回ほど行われた。終日研修ではミュンヘン市学校スポーツ局の担当専門職員が講師として研修を行います。最初の研修において職員の一人一人の子ども観について丁寧なすり合わせが行われ、子ども像に対する一致した認識を確認する作業に時間をかけたそうです。そして、子どもの権利という観点から保育の見直しを行い、徐々に無理のない範囲での変化を遂げていきました。

 

こういった子ども観から研修を行うというのも日本では珍しいことかもしれません。どちらかというと、子ども観というよりはどういった保育形態か、どういった活動をするのかということのほうが先にでて、その意図の部分に触れる説明は比較的に薄いように思います。そして、子ども観を重視するよりも、保育観や保育技術、カリキュラムに目が向きやすい印象がまだまだ日本では強いように思います。

 

オープン園にあたっては、はじめ職員の過半数は懐疑的であったようです。というのも、「子どもと先生とのつながりが弱くなるのではないか」とか「年少児がとまどうのではないか?」という点が憂慮されていたのです。しかし、活動が軌道にのり、1年半ほどたったところで、考えが改まってきます。それは子どもの表情が変わってきたからだとベルガー氏は言っています。

 

子どもたちの表情や活動への取り組み姿勢が目に見えてポジティブに変わってきたのです。特に一斉保育において消極的な立場の子どもたちが変わったといいます。遊びの選択肢、遊び相手の選択肢、関わる先生の選択肢などが広がることにより、園がより心地よい場所に変わっていることが実感できたといいます。この気付きによって、子どもと先生との絆が弱まる可能性は、実は子どもの側からの問題ではなく、先生側の視点だったことということを理解したといいます。先生の「子どもとつながっていたい」という気持ちや、「子どもの行動のすべてを把握しているのが良い先生である」という考えに縛られていたのではと思うとベルガー氏は言っています。

 

そして、「オープン園」は目指すべき完成形がないといいます。そして、それは在籍する子どもたちや職員の一部交代もあり、社会的環境も変化するからで、環境が変化すると親の要望や子どもの欲求も変化し、それによって園のあり方も改善していくことが望まれるのです。そのため、オープン園運営の基本は「変化への柔軟な対応」であるとベルガー氏は言います。

 

この「柔軟性」というのは保育をする上で非常に大切なことです。子どもはそれぞれ違います。毎年同じことを行っていても、それが今の子にあっているかというとそうではないのです。そのため、それぞれの子どもたちにあった環境を作らなければいけません。しかし、先生主導ではそれを設定するのは難しいのです。だから、子どもたちが選択できるだけの環境を作らなければいけないのです。そこには保育の視点の変更が求められます。ベルガー氏がいうように「実は子どもの側からの問題ではなく、先生側の視点だったことということを理解したといいます。」といったことに気づくことが重要になってきます。主体がいつの間にか、子どもではなく先生の側になっていることはよくあります。そうなっている自分に気づくことが柔軟性を持つ大きな一歩なのかもしれません。