4月2020

見えてくるもの

宮口氏は非行少年に対して、試験を行う中で見る力の弱さから、聞く力の弱さも見つけていきます。そして、本来は支援されないといけない子どもたちがなぜ、このような凶悪犯罪を起こしたのかそこが問題だと言っています。宮口氏がこれまで多くの非行少年を面接してきた中で、少年たちになぜ凶悪犯罪をしたのかを尋ねても、難しすぎてその理由を答えられないという子がかなりいたというのです。更生のためには自分のやった非行としっかりと向き合うこと、被害者のことも考えて内省すること、自己洞察などが必要です。しかし、そもそもその力がないのです。反省以前の問題が非行少年にはあったのです。

 

先ほどもいったとおり、ここで出てくる非行少年たちは本来支援されなければいけません。しかし、こういった少年たちの中で、幼いときから病院を受診している子はほとんどいないと宮口氏は言います。かれらの保護者・養育環境はお世辞にもいいとは言えず、そういった保護者が子どもの発達上の問題(絵を写すのが苦手、勉強が苦手、対人関係が苦手など)に気づいて病院に連れていくことはないからです。病院に連れて来れられる児童は家庭環境もそこそこ安定しており、その親も「少しでも早く病院に連れていって子どもを診てもらいたい」といったモチベーションを持っているのです。しかし、非行化した少年たちに医療的な見立てがされるのは、非行を犯し、警察に逮捕され、司法の手に委ねられた後なのです。一般の精神科病院にこういった少年たちはまずいないのです。

 

なぜ、こういった児童や少年たちが生まれてしまうのでしょうか。宮口氏はそこに家庭環境の差を話しています。経済的なものもあるのでしょう。しかし、まずは「少年を早く病院に連れていって子どもを診てもらう」という子どもに対する見方や目線も非常に重要なのでしょう。つまり、親である身近な大人がその子どものことをよく見ていなければいけなく。こういった生きづらい子どもたちが、どう支援してあげると社会に出た時に困らないような発達ができるのか、そのための環境作りができるのか、これは今の社会では非常に重要な問題でもあるように思います。

 

宮口氏は医療少年院で新しく入ってきたすべての少年たちに、毎回2時間ほどかけて面接をします。通常非行少年には、なぜ非行を行ったのか、被害者に対してどう思っているかということを聞くことがおおいのですが、実はそういったことを聞いても更生にはあまり役に立たないということが分かっているそうです。少年院に入ってくる少年たちは幼少期の長所から見ても、かなりの非行を繰り返しています。宮口氏が少年院に赴任したときは狂暴な連中ばかりなのではないかとビクビクしたそうですが、実際のところは人懐っこく、どうしてこんな子がと思えたそうです。しかし、面接をしていく中で、大勢の少年たちが抱えている共通した問題が見えてきました。それは宮口氏を非常に驚かせ、ショックを受けさせたものです。

非行少年の見るもの・感じているもの

宮口氏は法務省矯正局の職員となり、医療少年院に6年間、非常勤である現在までの期間を入れると10年以上勤めています。医療少年院は特に手がかかると言われている発達障害・知的障害をもった非行少年が収容される、いわば少年院版特別支援学校といった位置づけです。全国にはこういった少年院が3つあり、非行のタイプは窃盗・恐喝・暴行・傷害・強制わいせつ・放火・殺人までほぼすべての犯罪を行った少年たちがいます。

 

宮口氏が勤務していた少年院もそういった少年たちが収容されていました。宮口氏ははじめとても恐ろしく感じられたのですが、よく見ると少年たちの表情はそこまで暗くはなく、むしろ穏やかで、近くを通ると元気よく挨拶してくれました。そこである出会いがあり、その子どもとの出会いが宮口氏にはとても特徴的で、衝撃的だったと言っています。

 

その少年は社会で暴行・傷害事件を起こし入院します。少年院内でも粗暴行為を何度も起こし、教官の指示にも従わず、保護室に何度も入れられている少年で、ちょっとしたことでキレて、机や椅子を投げ飛ばし、強化ガラスにひびが入るほどでした。いったん部屋で暴れると非常ベルが鳴り、50人はいる職員全員がそこに駆け付け少年を押さえつけて制圧します。そういったことを週に2回くらい繰り返していました。しかし、宮口氏との診察では、その狂暴な少年は小柄で痩せており、おとなしそうな表情の無口な少年でした。

 

その子との診察ではあまり会話が進まず、宮口氏はこれまでの診察の中でルーティンとして行っていたRey複雑図形の模写という課題をやらせたそうです。これは図1-1にある複雑図形を見ながら、手元の紙に写すという課題です。神経心理学検査の一つで認知症患者などに使用したり、子どもの視覚認知の力や写す際の計画力などを見たりすることができるものです。かれは意外にもすんなりと課題に打ち込みます。そこで書いた図1-2の絵をかきました。それは宮口氏にとって衝撃だったと言います。

 

にも従わず、保護室に何度も入れられている少年で、ちょっとしたことでキレて、机や椅子を投げ飛ばし、強化ガラスにひびが入るほどでした。いったん部屋で暴れると非常ベルが鳴り、50人はいる職員全員がそこに駆け付け少年を押さえつけて制圧します。そういったことを週に2回くらい繰り返していました。しかし、宮口氏との診察では、その狂暴な少年は小柄で痩せており、おとなしそうな表情の無口な少年でした。

 

この絵をほかの人に見せて感想を聞いてみるとその人は「この少年は絵を写すのが苦手なのですね」と答えられたのですが、ことはそんな単純なことではないと言います。なぜなら、このような絵を描いているのが、何人にもけがを負わせるような凶悪犯罪を行ってきた少年であること、そして、Reyの図の見本が図1-2のように歪んで見えていることは「世の中のことすべてが歪んで見えている可能性がある」ということだからなのだと宮口氏は言います。そして、見る力がこれだけ弱いとおそらく聞く力もかなり弱く、我々大人のいうことがほとんど聞き取れないか、聞き取れても歪んで聞こえている可能性があるのです。それと同時に、彼がこれまで社会でどれだけ生きにくい生活をしてきたのか、容易に想像できます。つまりこれを何とかしないと彼の再非行は防げないのです。

 

この衝撃的な絵を見た宮口氏はこの少年がいる少年院の幹部を含む教官たちにもこの絵を見せます。すると皆驚き「これならいくら説教しても無理だ。もう長く話すのはやめよう」といっていましたが、ここである疑問が生まれます。ベテランの教官たちがどうしてこれまでこういった事実に気づかなかったのか。気づかずに「不真面目だ」「やる気がない」と厳しい指導をしていたのか、もしそうだとしたら、余計に悪くなってしまいます。宮口氏はこの結果を見て、実は凶悪犯罪を行った非行少年の中にかなりの割合でこういった少年がいるのではないか、成人の犯罪者でも同じではないのかと思ったのです。

非行と発達障害

最近、「ケーキの切れない非行少年たち」という本が話題を呼びました。これは立命館大学で臨床心理の教授であり、もと精神科医の宮口幸治氏が著した書籍です。手に負えない犯罪者の子どもたちの様子から日本の発達障害教育における問題、そして、提案を挙げています。もともと彼は大阪の公立精神科病院に児童精神科医として勤務しており、外来や入院病棟で発達障害、被虐待、不登校、思春期の子どもたちなどを診察していました。そして、そこで発達障害を持った子どもと出会います。

 

この少年は性の問題行動をたびたび起こしていました。とにかく年齢関わらず、女性の体を触ってしまうというこだわりがあったのです。そこで宮口氏は彼に認知行動療法を行います。これは前回のポール・タフ氏の著書にも紹介されていましたが、思考のゆがみを修正することで適切な行為・思考・感情を増やし、不適切な行為・思考・感情を減らすことや対人関係スキルの改善などを図る治療法の1つです。一つの見方ではなく、違う見方を伝えることで自分の思考のゆがみに気づき、その後はより適切な行為・思考・感情につながっていくことになるのを目的にしています。こうやって考え方の思考をかえることでより好ましい行動につなげていく認知行動療法は性加害者への治療プログラムの根幹にもなっています。

 

性加害者は性に対して歪んだ思考(実は女性は襲われたがっている など)を持っていたり、対人関係において「社会の人たちは皆敵だ」「自分はみんなから避けられている」「自分には価値がない」といった攻撃的、被害的思考をもっている場合があり、そういった歪んだ思考が性加害行為につながっている可能性があるのです。しかし、この認知行動療法を施している間にも、その時には反省していたのにも関わらず、少年は性の問題行動を起こします。その後、なぜそうなったのかその原因が分かりました。かれは知的なハンディも併せ持っていたために認知機能が弱く、認知行動療法のワークブック自体がしっかりと理解できていないかったのです。

 

認知行動療法は「認知機能という能力に問題がないこと」が前提に考えられています。そのため、認知機能に問題がある場合(発達障害や知的障害の場合)、効果ははっきりとは証明されていません。そのため、認知行動療法がベースとなったプログラムは効果が期待できない可能性があるのです。結局病院ではこういった発達障害や知的障害を持ち問題行動を繰り返す少年に対しては、投薬治療といった対症療法しかなく、根本的に治すことは困難なのです。

 

宮口氏はなぜ彼らが法を犯したのか、犯行に至った背景や問題点はよくわかるのですが、少年たちに対してどう支援をしていけばいいのかに非常に悩んだそうです。投薬以外の個別カウンセリング、認知行動療法、作業療法などで解決するは思えず、その他の手立ても思いつかなかったのです。そこで少年院に来て、驚いたことがあります。それは発達障害の子どもでも病院を主審する児童・青年は比較的恵まれた子どもたちだったのです。もちろん、虐待を受けた子もいたそうですが、基本的には病院には保護者や支援者がいなければい連れてこれないのです。また、非行に走って加害者になり、警察に逮捕され、さらに少年鑑別所に回され、そこで初めて「障害があった」と気づかれるという現状もあったのです。つまり、現在の特別支援教育を含めた学校教育がうまく機能していなかったのです。では、どうしたらこういった少年たちを更生させることができるのでしょうか。そして、その根底にどういった特徴があるのでしょうか。

子どもの未来と大人の姿勢

子どもと不利な状況について新しい考えかたを提唱している人々が自説を主張するとき、経済の話をすることがよくあります。それは国家的な規模で子どもの発達へのアプローチを変えていくべきだ、なぜならそれが資金の節約にも経済の改革にもつながるからだと考えるからです。実際、ハーバード大学内の児童発達研究センターの所長ジャック・ションコフは低所得層の親への効果的な支援プログラムを子どもが小さいうちに実施すれば、あとになってから治療教育や職業訓練を現行のアプローチよりはるかに費用がかからないうえに、効果もずっと高いと主張しています。ジェームス・ヘックマン氏はもう一歩計算を進め、ペリー・プレースクールは1ドルの投資に対して7ドルから12ドル分の利益をアメリカ経済にもたらしたとしています。

 

しかし、タフ氏が共感を覚えたのは、経済の話ではなく、個人的な主張の方だったと言います。彼は逆境に育つ若い人々と一緒に過ごしたとき、二つの感情がこみ上げるのを抑えきれなかったと言います。一つは、彼らがすでに何かを逃してしまったことへの怒りです。たとえば、ケウォーナがミネソタのミドルスクール時代に他の子どもたちが数学や比喩の勉強をしている間にポップコーンを食べながら映画を見て過ごしたという当時の気持ちを語ったときに、タフ氏は彼女のことを思うと怒りすら感じるというのです。なぜなら、彼女は結果として、いまになって倍も懸命に勉強しなければならないからです。

 

しかし、その反面、タフ氏はケウォーナが実際に倍の勉強をしていることに対して、二つ目の感情、賞賛と希望を感じたと言います。それは避けられない運命と見えたものに背を向けてよりよい道を行くという、苦痛を伴うはずの困難な選択をする若い人々を見たときに感じたと言います。ここで登場した彼らや彼女らは自分が10代だったころより自分を作り直すためにはるかに真剣に勉強している。そうやって毎日もう一段、さらに成功に満ちた未来へと梯子をのぼる。

 

このときにタフ氏はあるたとえをしています。「そのときまわりにいる私たちは、彼らの努力に拍手喝采をおくり、いつかもっと多くの若者が彼らに続いてくれることを望むだけは十分とは言えない。彼らだって一人でそのはしごに身を引き上げたわけではない。彼らがそこにいるのは、誰かが一段を登る後押しをしたからだ」

 

私は教育は導くものではなく、フォローしてあげるべきものではないかと思わなくもありません。本来の教育のあり方は、学習であり、そこには主体性があります。つまり、学びたいものを選ぶのは子どもであり、「学ばせる」というのは子ども主体ではなく、大人主体なのです。そして、「学ぼう」と思うのであれば、そこに「学ぶ目的」がなければ、なかなか学ぶのはつらいものになります。そして、その目標は「夢」であると思います。今の日本でどれほどの子どもたちが夢を持って「まい進」できているのでしょうか。貧困などの経済状態も家庭にはあるでしょう。そういった子どもたちが夢を持てるようにどれだけ支えれているのでしょうか。ポール・タフ氏の話は自制心や実行機能、など今求められている子どもの能力を紹介していますが、その下支えとなる大人のあり方も大いに影響のある内容として描かれています。では、どういった環境を作ることが必要なのか、それが子どもの将来のために役立てるのであろうか。そんなことを考えます。

子どもと周囲の環境

アメリカでは保守派が性格が重要であるという主張が正しいことが科学的に示されたのですが、貧困に関する典型的な保守派の議論が一歩及んでいないことがあるそうです。なぜなら保守派の主張が「性格が重要である・・以上」で止まってしまうからです。彼ら自身の力でそうなってもらうしかない。言って聞かせることはできるし、罰則を設けることもできるが、我々の責任はそこまでだ、というわけなのです。つまり、「性格が重要である」とは言っているものの、それは生まれながらであり、そこに関するアプローチは何もできていないのです。

 

しかし、実際のところ、科学によって、和解人々の成功にとって極めて重要な役割を果たす性格の強みは、生まれながらのものではないということが分かってきました。そのため、幸福や良質な遺伝子の結果として魔法のように現れるものではないのです。脳内の化学反応に根差し、子どもが育つ環境によって形づくられるため、ある程度は計測、予測が可能です。つまり、社会全体としての私たちにも多大な影響力があるというのです。誕生から大学を出るまでのあいだ、どういう種類の支援策が強みやスキルを伸ばすかについてはいまやたくさんのことがわかっています。親は格好の媒体ですが、唯一の媒体ではない。強みの形成を助ける力はソーシャルワーカーからも、教員からも、聖職者からも、小児科医からも、近隣の住人からも発することができる。たすけとなる支援策はどこから提供されるべきか、政府からか、非営利団体からか、またはそのどれもの組み合わせかを議論することができます。どちらにしても、我々にはできることは何もないとはいえないことが分かってきました。

 

このことは日本においてももっと主張されてもいいのではないかと思います。日本においては「母親神話」とでも言われるほど、「母親が子どもを見なければいけない」と言われる風潮があまりにも強いように思います。いまだ、育児休暇の取得率は女性にくらべ、男性の取得率は低いままであったり、まだまだ女性と子どもとの関係が限定されて見られる風潮が残っているように思います。確かに母親との愛着は非常に子どもにとっての影響は少なくはありません。しかし、それだけではなく、父親にしても、社会においても、子どもを取り囲む環境にこそ、影響を受けているのを忘れてはいけません。また、これは保育現場においても、言える内容であり、未だ保護者の目線は子どもに影響を及ぼすのは先生や教職員であるという意見も多くあります。そのため、親からしても「あの先生は当たり」と言われてあり、逆に「あの先生ははずれ」というように見られることが多くあります。確かに一人の先生に限定した保育で行われるのであれば、一人の先生の影響は大きいのかもしれません。しかし、子どもたちが様々な環境のなかで性格の強みを持っていくのであれば、その環境はもっと多様性があったほうが良いのかもしれません。

 

現在私の園では職員が複数で保育をするようにしています。それは子どもたちが社会の中で生きていくという意味合いも多くあります。いろいろな人と関わる中で、自分を知り、自分をコントロールする力を見つけてほしいと思っています。今は「子どもたちを大切にする。」「丁寧な保育」という見方がかえって過保護な環境になっているのかもしれません。そして、その目線はすべて子どもたちにばかり目がいきがちです。それよりも子どもを取り囲む環境こそ本来目を向けるべきで、それは家庭や教育現場だけではなく、地域や社会においても子どもを中心に見ていく必要があるのだと思います。