見る力 聞く力 想像する力

では、宮口氏のいうように「見る力」「聞く力」「想像する力」がないとどういったことがおきるのでしょうか。「聞く力」が弱いと先生が注意しても、何を注意されているかがわからないので、同じ失敗を繰り返すことにあります。これは保育をしていてもよくあることです。子どもたちに注意をして、その時は神妙な顔をしているのですが、同じことをして、また注意されています。実際のところ、改めてその子に何について怒られているか尋ねてみると、分からなかったりすることがあるのです。これでは注意をしていても意味がありません。その子が悪いのではなく、こちらの注意が一方的であり、その子にとって分からない言い方をしていたり、相手の子どもに共感せず、感情的に言っていることもあるのかもしれません。

 

では「見る力」が弱いとどうなるのでしょうか。見る力が弱いと、文字や行を読み飛ばしが多く、漢字が覚えられなかったり、漢字が覚えられない、黒板が写せない(先生が次々に書いていくと、どこを追加したか分からない)といった学習面の弱さが生じるだけでなく、周囲の状況や空気を適切に読めないため、「自分はみんなから避けられている」「自分だけ損をしている」など被害感や不公平感を募らせることにもつながると宮口氏は言っています。

 

宮口氏は非行少年には限らず、学校で困っている子どもたちにはこれに類することが多く起こっており、不適切な言動に結びついているのではないかということを感じていると言っています。これらの見る力や聞く力においては、保育の中でもよく起きることです。それだけ、今の子どもたちはこういった環境においては恵まれていないということが分かります。まさにコミュニケーション能力においてこういった部分の弱さは子どもたちの育ちの中に大きな問題になっているということがいえます。

 

そして、三つ目の「想像する力」の弱さです。見えないものを想像する力が弱い子どもは具体的な目標を立てるのが難しくなります。そして、目標が持てないと努力もしなくなると言います。そうすると成功体験も達成感も得ることができないため、自分に自信を持つことができず、自己評価も低いところからぬけだすことができなくなるのです。そして、もう一つ困ったことが、自分が努力できないと「他人の努力を理解できない」というのです。とりわけ非行少年にとってはこういった他者理解が大きな問題になるようです。他人の努力が理解できないことで、簡単に盗んでしまったりするのです。想像力が弱いことで、「今これをしたらこの先どうなるのか」といった予想もたてられず、その時がよければいいと、後先考えずに行動してしまったりします。このように認知機能の弱さは勉強が苦手というだけではなく、さまざまな不適切な行動や犯罪行為につながる可能性があるのです。そのため、認知機能が弱い非行少年は矯正教育を行っても積み重ねができないのです。そもそもの根本的な認知機能の底上げから始める必要があるのです。

 

宮口氏は同じことが学校教育でも当てはまると言っています。悪いことをした子どもがいたとして、反省させる前に、その子にそもそも何が悪かったのかを理解できる力があるのか、これからどうしたらいいのかを考える力があるのかを確かめなければなりません。もしその力がないなら、反省させるよりも本人の認知力を向上させることの方が先だというのです。

 

この考えには私も同感です。学校教育だけではなく、保育の現場においても、同じことを考えなければいけません。よくあるのが「ごめんなさい」を言わせることです。この言葉ばかりを求めるとこの言葉を言えば、とりあえず解放されるとおもう子どもが出てきます。結果、相手にとってどんな嫌なことをしたのかが分からずに喧嘩が終ることもあります。実際のところ、自分の気持ちと相手の気持ちとの折り合いをつけることが喧嘩をする経験の一番の大切なところですが、大人の介入によっては、その経験をしないまま、大人の都合で終わらされることも多いように思います。今回出てくる非行少年たちは知的な遅れもあるのだろうと思いますが、こういった心情は仮に多少のハンデはあっても養えることがあるのではないだろうかとも感じるのです。自分の経験上、幼児期に手が付けられないほど荒れていた子どもたちでも共感や関わりを基にした保育を経験していく中で、落ち着いていくさまをいくつも見てきました。小さい頃からの発達の積み重ねや連続性はこういった将来の非行や問題行動に大きな影響を与えるのは間違いのないことだと保育を見ていて感じます。