貧困と健康格差

前回のエリザベス・ドージアは学内で起こっている事件や素行において、決してルールを厳格にすることが解決にはつながらず、「子どもたちにはどういった家庭があるのか」や「貧困は子どもたちにどういった影響を与えるのか」ということに考えがいきつきました。

 

次にもう一人、ナディーン・バーグ・ハリスもドージアのように「貧困は子どもたちにどのように影響を与えるのか」と考えがいきついた一人です。彼女は医師として、患者の健康という観点から「貧困は子どもたちにどういった影響をあたえるのか」という問題に取り組みました。彼女はサンフランシスコのベイビュー・ハンターズポイント地区。街の南東の地味な工業地区で、市内で最も大きく最も荒れた公営住宅のある場所の児童保健センターの小児科長として働いていました。彼女はカリフォルニア・パシフィック・メディカル・センターという資金の豊富な私立の総合病院に雇われており、サンフランシスコ市内の健康格差の問題に正面から取り組もうとし始めました。こういった健康格差はベイビュー・ハンターズポイントのような地区では格差を見つけるのは難しくありませんでした。そして、バーグ・ハリスはハーバード公衆衛生大学院で健康格差について学んでいたのです。そこでは格差をなくしていくための方策も公衆衛生学の教科書に書いてありました。そこでは低所得の家庭が医療機関、特に一時医療(一般的な疾病の予防や初期治療)を扱う期間にかかりやすいようにすることが格差をなくすための方法だとそこにはありました。

 

彼女はクリニックを開くとまずは裕福な家の子どもと貧しい家の子どもの差が明らかで見た目にも分かりやすい健康問題、つまり喘息の管理、栄養教育、三種混合ワクチン接種の推進に重点的に取り組みます。ほんの数カ月で目覚ましい成果があがりました。しかし、彼女はこういいます。「ワクチンの接種率をあげ、ぜんそくで入院する子どもの数を減らすのは、結果的には驚くほど簡単でした。けれども、実はこれで格差の根本的な問題に対処できていないのではないかと思うようになりました。つまり、私の知る限り、このコミュニティではもう長いこと破傷風が原因で死亡した子どもはいないわけですから」

 

彼女は夢の仕事に就くことができ、充分な訓練を受けており、懸命に働いている。資金もたっぷりある。しかし、助けようとしている子どもたちの生活に満足のいく変化をもたらすことができずにいる。子どもたちはいまだに家庭でも街中でも暴力と混沌に取り巻かれ、身体的にも精神的にも明らかに重大な犠牲を強いられてきた。クリニックで出会う子どもたちの多くが抑うつ状態だったり、不安を抱えていたりしているように見え、そのうちの何人かははっきりと心的外傷を抱えていた。そして、彼らが日常的にうけるストレスは、パニック発作から摂食障害、果ては自殺行為まで、さまざまな症状として表れた。バーク・ハリスは一時診療を提供する小児科医というよりも戦場の外科医であるように(患者に応急処置だけを施して戦場に送り返しているように)感じることがあったというのです。

 

こういったことに対し、バーグ・ハリスが答えを探した結果、貧困や逆境に関するまったく新しい議論にたどり着きます。公益機関の刊行物や政治学のシンポジウムではなく、医療系の機関誌や神経科学の会議でそうした議論がなされていました。このようなドージアの学校のあるローズランドやバーグ・ハリスの健康格差の舞台となったベイビュー・ハンターズポイントのような地区の問題は普通は社会問題、つまり経済学者や社会学者の領域とみなされるものが多いのですが、実はもっと微細なレベルで(ヒューマンバイオロジーの領域の深部で)分析・検討された方がよいという答えにたどり着きます。最初は極論に思えたが、徐々に納得がいくようになったと彼女は言います。

 

この結果から見えることがあります。確かにバーグ・ハリスは健康格差をなくすために予防接種や栄養教育などを施します。そして、ある程度の成果がありましたが、「もう長いこと破傷風が原因で死亡した子どもはいない」というように現状としてはその部分の改善はすでにできているというのです。「彼らが日常的にうけるストレスは、パニック発作から摂食障害、果ては自殺行為まで、さまざまな症状として表れた」という部分の改善は難しかった。この部分のメンタルヘルスが結果として健康格差にもつながっているのではないかと考えたのです。そして、それが「貧困と健康格差との関係」においても大きな疑問をバーグ・ハリスに投げかけたのですね。