9月2019

社会脳の土台

人が社会を作っていく中で必要となってくる能力において、相手の気持ちを予測する「共感」の次に必要な能力を米国の心理学者で科学ジャーナリストのダニエル・ゴールマンは「全面的な受容性を持って傾聴する能力。相手に歩調を合わせる能力」と言っており、この能力を「情動チューニング」と名付けました。そして、この能力の発揮するにあたって役目を果たすのが「ミラーニューロン」なのです。このミラーニューロンは人の脳の中で、他者の感情や、動き、感覚、情動を自分の内部で起こっているかのように感知することができる神経細胞であると言われています。そのため。ミラーニューロンの働きが強い人ほど共感する力が高いと言われています。

 

そのため、他者かから読み取った情報を自分の中で再現することによって、迅速で的確な対応をすることができ、動作の意図を嗅ぎつけただけでニューロンが反応し、そこに働いている動機を嗅ぎつけることでニューロンが反応し、その他者の動機を探り、意図と理由を感知することで、他者から貴重な社会的情報を得ることができるのだそうです。この周囲の状況に対するアンテナの役割を果たす能力があるおかげで、複雑で高度な社会を形成することができると言われているのです。

 

人は「相手の気持ちや意図を予測する能力」と「その相手の気持ちや意図を予測し、それに対して調整する能力」があることで高度な社会を形成することができるということが読み取れます。しかし、「インターネット社会は、時代を変化させるきっかけにはなりますが、持続的社会をつくるにはなかなか至らないということは、社会とは、実態としての人と人とのつながりだからでしょう。それはインターネットだけではなく、テレビなどでの情報についても同じようなことを感じます。」と藤森氏は言います。面白い例として、俳優と実像の話が出ていました。テレビドラマで出ている俳優と実像とではギャップがあるというのです。名優は演技力が素晴らしいのであって、その人自身の性格とは異なることが多いのですが、混同してしまうことがあるというのです。怖いホラーを書いている作家が、実は非常に優しい人であるとか、立派な評論を書いている人が、実生活は乱れているといったことは多くあることです。

 

直接かかわることでしかわからないことがあるのが人の社会であるというのです。現実の社会の中でメディアやプロパガンダに人が騙されてしまったり、扇動されてしまうことがあります。こういった間接的な印象や情報はその人に共感する場合の落とし穴になることがあると藤森氏は言います。もちろん、テレビやインターネットの普及、SNSなどのツールは素晴らしいほど多くの情報を私たちにもたらしてくれます。しかし、その反面、人間本来の社会を作るプロセスを崩してしまっている部分もあるのかもしれません。海外の人が日本に来て驚くのは日本は特に電車に乗っても、レストランに行っても、人と対面しながら目はスマートフォンに向かっている姿だということを聞いたことがあります。ツールを使いこなすためには土台となるコミュニケーション能力は非常に重要な能力だと考えたとき、多様性のある子ども集団や地域社会といったものの重要性は今後もっと考えていかなければいけない最優先事項になるように思います。

脳と社会、そして学び 2

なぜ、これほどまで「脳と社会」の研究がされるのでしょうか。その背景として、これからの社会、人と人が直接結びつくことが、持続する社会を構築するうえで必要であることの証なのではないかと藤森平司氏は言います。

 

社会脳は子どもの知識・教養・人格の形成に不可欠なものであると言われています。そして、ミラーニューロンという神経細胞によって、心の中で他者になりきり、その仮想体験を持ちに他者の気持ちや意図を理解したり、他者の行動を予測したりします。そして、その行動こそが、他者から知識・教養・人格を受け取るうえで重要であると同時に、他者理解を通じて、共感・同情・相互利益・相互扶助を行う「共生脳」においても中心的な役割を演じているのです。このように社会脳を育てることは共生脳を鍛えることになり、それが子育てをすることで非常に重要になってくるのだそうです。

 

そして、それらを鍛えるためには子どもに教えるとか、しつけるといったやり方ではなく、子どもが自然に周りからよい知識・教養・人格を吸収するように、よい社会脳やよい共生脳が育つ環境を作ることが、早期教育で最優先される課題だというのです。では、そんな環境はどのように作っていけばいいのでしょうか。今の時代の環境では核家族化や地域社会のコミュニティの欠如、少子化などの理由で困難な時代なのではないでしょうか。子ども同士が関わる中で「他者の気持ちや意図を理解する環境」というのはつまりは「顔と顔を突き合わせてお互いの感情を理解する」といった環境です。今や保育施設でしかこういった関わりのある子ども環境は作れなくなっています。

 

米国の教育心理学者の創始者とされるエドワード・ソーンダイクはこの一連の中で育った能力を「社会的知性」と名付け、「人々を理解し管理する能力であり、人間世界でうまく生きていくために誰もが必要とするスキルである」と定義しました。この知性は人間関係についての知識の発揮だけではなく、実践できる能力でもあると言い、この能力と脳の働きの関係を考えるうえで出てきたのが「社会脳」です。そして、これは脳の特定の部位を示すことや神経細胞のことでもなく、他人との関係に対する思考や感情などを統括する神経メカニズムの総称であるとされています。他者の心的状態に合わせることや逆に影響を受けるプロセスのことを言います。

 

そして、社会脳の能力は書物の上での学習で高めらえれるような能力ではなく、乳幼児における養育者との関りによって目覚め、以後の人間関係の積み重ねによって、発達してく能力です。この社会脳の能力は、社会生活を行う上で必要であり、社会生活の中で能力を高め、最終的には人間社会の平和維持にも役立つ能力であるので、いじめ、少年犯罪などの根源に、この「社会的知性」の欠如、社会脳の未成熟があるのではないかと推測されているそうです。

現在に日本でも様々な事件や問題が起こっていますが、よく聞くのが「衝動」による事件の増加であります。そのほかにもうつ病、いじめ、ひきこもりといった社会問題が後を絶ちません。もしかするとそれはこの「社会的知性」に原因があるのかもしれません。ここにも書かれていたように乳幼児施設はとりわけ、その重要さは高いように思います。子ども集団の重要性や養育者との関係性、子どもたちにとって本当に必要な環境は何なのか。小学校に向かって遅れないことが目的なのか、重要なのは教育を受けることではなく、教育を受けることでどう社会に生かす力にするのかを考えなければいけない時代なのだと思います。脳科学の証明は教育の本質や社会を見直すきっかけになるように思います。

共に生き、共に育つ

これまでの脳科学の内容で人間を人間たらしめる最大の要素が大脳新皮質にあるということを紹介してきました。そして、その進化は人間が厳しい自然状況や環境を乗り越えるため生存戦略として脳が進化してきたのです。しかし、そのためには社会を形成しなければいけないく、その中で起こる諍いや軋轢といたトラブルを乗り越えるためにより高度な社会的フリーによる「社会的知性仮説」です。そして、1990年、英国の進化人類学者レスリー・ブラザーズが初めて人を対象にした「社会脳」(social brain)という言葉を使い、「ヒトの脳の大脳皮質が極端に発達しているのは社会集団の中で生き抜く社会性を身につけるためだった」とい「社会脳仮説」を提唱したのです。一方、同じく1990年代英国の人類学者ロビン・ダンバーは様々な霊長類を比較し、大脳新皮質の大きさは群れ(集団)の大きさと相関関係があることを見出した。そして、その研究の中でも、「共感」の研究は最先端のテーマの一つなのです。

 

ここで藤森氏は「日本では、バブル期における経済市場原理、個人主義の進行によって『共感』『信頼』『公共性』という感覚を後回しにしてきた。私は、経済成長は過去の物語となり、2度の大震災と幾多の災害に見舞われている現在の日本においては、もう一度『共感』『信頼』『信頼』『公共性』の機能と、それが育つ環境を見直す必要がある」と言っています。

 

そして、「人類において知識・教養・人格は、いずれも個人から社会全体へと拡大し、また逆に社会全体から個人の内部へと浸透し、拡大と収縮を繰り返しながら柔軟に発育・発達しているので「自分の子どもだけはよい子に育つように」というのは親心として無理ないことですが、社会脳としての観点からはそのように考えることはプラスにはなりません」と言っています。では、現在社会で子育てで最優先されなければならないものは何か。それは「自分の子どもが人類社会の一員であり、社会全体の知識・教養・人格と共同体を構成しているのだという『共に生き、共に育つ』意識を、社会全体と養育に関わる全ての人たちが共通の認識として持つことであり、同時にその意識を子どもたち自身にも持たせることなのです。」

 

確かに現在の社会の様子を見ていても、地域環境の希薄化や地域の子育て力といっ事柄は社会問題になっていますし、そういった問題が子どもに与える影響もも課題になっていることが多いです。そして、教育環境を見ていても、年齢別での学級が日本はまだ主流ということや兄弟が少ないということもあり、子ども集団の環境も同年齢といった限定された子ども集団の中で遊んでいること多いように思います。それによっておこる弊害も保育をしていると見えてくるように感じます。子どもたちを社会の中にいる個人というとらえ方ではなく、個人と社会が分けられている社会でもあるように思います。その中で子ども自身が「社会の一員」として自分を認識するのはなかなか難しいのかもしれません。

 

藤森氏はこの内容をこう締めています。「『他人のことは関係ない』という考え方や人生観は、子供の成長や、社会脳にとって最も有害であり、今後の生きていく上で子どもたちには最も好ましくない考え方であるということをすべての人々が強く認識することが、人類の遺伝子を未来につないでいくことになるのです」まず、自分自身がそうなっていないか考えてみるのが子どもを育てる第一歩なのかもしれませんね。

男子脳と女子脳の進化

男性と女性の脳の使い方が違うということは広く知られていますが、そこには進化も関わっているのではないかということを藤森平司氏は著書「保育の起源」の中で語られています。そこでは神経生理学者の北澤茂の日本経済新聞の掲載文を要約して紹介しています。そこには「人類の長い歴史では育児、子どもの面倒は女性が担ってきた。言語能力が未発達で泣いたり片言しか喋らなかったりする幼い子どもの意図を読み取って、コミュニケーションをとる。赤ちゃんに抑揚豊かに語りかける。右脳を使いその能力に長けた女性のいる集団のほうが子どもの言語能力が発達し、集団としての力をもつ。そんな流れがあったとしても不思議はありません。」

 

また「脳の言語機能は左脳というのが100年以上続いた通説でした。朗読の声を聞かせてみると、確かに男性はほとんどが左脳だけで話を聞いている。ところが、大半の女性は話を聞いているときに右脳の対照的な部位も使っている。時間的に短い音や単語レベルの言語処理はもちろん左脳ですが、時間的に長い文章全体の理解となると左右両方の脳を使っているのです。」つまり、使用部位の違いは、長い間女性が担ってきた育児にあるではないかというのです。続けて「男性と違い、女性は腕力にものをいわせるわけにはいかない。対立を極力回避して賢く生きることができるよう、話し方から相手の心、気持ちをしっかり読み取る能力を高める方向にいったとも考えられます」とあります。確かに私も妻と話をしている時を考えてみると、私は論理的に話をするのに対して妻は感覚的に話をします。妻のほうが右脳派だということはこれまでの夫婦の話でも出ていたのですが、どうやらその通りなのですね。また、女性は確かに大昔では男性が狩りに行っている間、家族や部落を守らなければいけません。そのために団結しなければ守れないというのもあったのかもしれません。

 

北澤氏はこの男性と女性の違いを理解することが相手を認めることにつながると言っています。「違いから言えるのは、お互いの理解が大事ということです。男性は時に女性が論理的に話をしないと言ったりします。でも、実際は全体の状況が見えているのは女性なのに、男性は左脳で言葉通りにしか話を聴く力がなくてイライラしているのかもしれない。女性も男性は相手の気持ちを読むのが不得意なのでデリカシーに欠けると分かれば、鷹揚に慣れるでしょう。」と言います。「ざっくりと言ってしまえば、相手の気持ちを読むのが得意なのが女性。一方男性は左脳だけを使い、抑揚とか連想にとらわれずに、言葉通りに受け取って判断する。その場の空気に左右されず、冷静で決断力があるともいえるし、鈍感と言ってよいかもしれない。個人差があるからあくまで平均的な話ですが」と話しています。そして、「お互いに知って補い合うことが何よりも重要でしょう」と語っています。

 

これらの内容はヒトという生物が生存戦略を駆使し、今のように生き残っていくためには非常に重要な脳の発達だったと思います。先ほども言った通り、女性は部落や集団を守るためにはコミュにエーション能力は高くなければいけなかったでしょうし、男性は狩りを集団で行うためには言葉通りに受け取り、冷静な決断力が即座に必要とされることがおおかったでしょうから、必要な発達がそこにはあるように感じられます。そして、その女性と男性がお互いバランスを取りながら集団を形成していくのを考えると、そのどちらの存在は子どもにとっても必要になってくるのだと思います。

脳と社会、そして学び

「自分たちの脳を知るのは社会を知ること」と言っている北澤氏ですが、「すべてにおいて完璧な脳はありません。男女だけではなくだれでも脳に違いがあり、どこかに得意、不得意がある。それが様々な才能、ダイナミックな社会につながっている。社会の根底には脳があります。よりよい社会を作るには自分の脳を知ることが大事だと思います」とまとめています。藤森氏はこの言葉を受けて「この言葉を『脳』という生理学的な表現ではなく、『特性』『個性』に置き換えてみると言い」と言っています。「子どもは、必ずどこかに得意・不得意があります。それが様々な才能、ダイナミックな社会につながっていきます。社会の根底を人それぞれの特性が支えています。よりよい社会をつくるには、我が子の特性を知り、それを生かすことが大事だと思います」と言い換えています。

 

「脳の特性によって得意・不得意があり、それがあるからこそ、ダイナミックな社会になる。」このことは子どもに限らず、人の集団というのはそういうものなのかもしれません。全員が同じ特性や同じ個性を持っているとおそらく人間や生物は生き残ってこれなかっただろうと思います。人間は集落をつくり、そこで知恵を出し合ったことで生き残ってこれたのです。そこには当然得手不得手があったでしょうし、補い合いながら社会を作ってきたことで人は生き残れてこれたのです。

 

また、藤森氏はジャーナリストでノンフィクション作家でもある立花隆さんが朝日新聞のエンターテイメント「どらく」でシニア世代が学ぶことの意義について話したことを紹介しています。そこでは「そもそも『学びたい』というのは人間の本能です。学びたい動物なのです。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは〈人間は生まれながらにして知ることを欲している〉と『形而上学』の冒頭に書いています。人間だけじゃない。あらゆる生物にとって、〈知りたい〉は本能なのです」と言っています。そして、「生きていくということは、自分の周辺世界がどういうものなのかを学び続けることなのです。学ぶ意欲がなくなったら、生物は生きていけなくなるのです。人間の場合、学ぶ意欲がなくなった人は、死んだも同然の状態にあると言っていいんじゃないですか」と語っていたそうです。

 

子どもたちを見ていると「なんでも自分でしてみたい」という意欲がある様子がとても見られます。そして、お手伝いの行動は率先してやろうとします。その様子は意欲というものもあるのでしょうが、自分がどこまでできて、どこまでができないのかと試しているようにも見えます。こうやって、やってみたり、できなかったりする、トライ&エラーを繰り返すことで体験を通して学んでいるのです。「学ぶ意欲が亡くなった人は死んだも同然」というのは子どもたちを見ているとよくわかります。その反面、では保育環境の中でどういった環境を作ることがそれにつながるのかということも同時に感じるのです。保育の中で「心情・意欲・態度」ということはとても重要になってくる言葉ではあります。そして、そのためには「環境を通して」ということが重要と書かれています。「やってほしい」という大人の意見を子どもに押し付けるのは結果として子どもたちの意欲にはつながらないと言います。結局のところ、子どもたちの学ぼうとする意欲を信じ、大人は真心を持って接すること必要になってくるのでしょうね。あくまで子どもが主体であることが結果として本来の学びにつながるのだと思います。