日本人観

ジャレド・ダイアモンド氏は著者の中で伝統的社会の紹介をしていき、その中伝統的社会で行われて育児方法を取り入れるように提案していました。では、日本の子ども観というものはどういったものがあったのでしょうか。

 

藤森平司氏の著書「保育の起源」の中に、日本の子どもに関する民族学的研究者の宮本常一氏の著書「日本の子どもたち」を紹介しています。そして、この本の「はしがき」には「古い時代から日本の国民は貧しかった。中背の終わり頃、日本を訪れたキリシタンのパードレたちもそのことを書いている。しかし、人々はその貧しさによごれまいとして、心だけは高く清いものにしようと努力した。戦国騒乱の世の中でありつつ庶民はうそをつかず、ものを盗まないと異邦人たちは感嘆して書いてある」と日本のすばらしさを書いています。この表現はおそらく近代まで日本を訪れた外国人の日本人観の要約といっていいでしょうと藤森氏は言います。

 

そして、日本の子ども観については宮本氏は「子どもたちのしつけの中で重要視されたのは、この清潔にして貧乏にまけない意欲であった。だから貧乏さえが魅力だった。」「日本人にとっての未来は子供であった。自らの志がおこなえなければ、子供に具現してもらおうとする意欲があった。子どもたちにも、またけなげな心構えと努力があった」「子どもたちも過去から現在へ一貫して模倣―工夫―創造を、そのあそびやまつりや、仕事の中に繰り返しつつ成長しているのであって、しかしそれが親と子どものつながり、大人と子どものつながり、子ども同士のつながり、学校と子どものつながりなどによって、子ども自身が人格として形成されていく。このような関連を環境と名づけるのであれば、ただ、組織的でなかったために、不幸なものが周囲にはみ出しがちだったし、学校と一般社会の融合に長い年月を要した」と宮崎氏は言っています。

 

外国人の日本人観においても、日本の子ども観においても、日本人は貧しくとも心だけは高く清いものにしようと努力することや清潔にして貧乏にまけない意欲といったように志高く生きようとした力強い生命力がある民族性がそこにはあったのですね。藤森氏は子ども観の紹介の中で「子どもを思う親の心は今でも変わりません。しかし、未来を見る力、何が子どもにとって必要なのかを見る力が衰えてきた気がします」と言っています。確かに、この頃に比べ、今の時代が「未来はこども」といったような言葉は聞いても、環境が果たして、そうなっているのかと考えてしまいます。

 

そして、様々な人との関わりのなかで成長し人格が形成されていくといった中で、「模倣―工夫―創造」というプロセスの大切さを宮本氏は言っています。この学びのプロセスが教育現場でどのように実現していかなければいけないのか、それが実現できるような環境や活動とはどういったものであるべきなのか。日本の「そもそも」から学ぶことは多いですね。