8月2019

「当たり前」の見直し

「当たり前」を見直すことは生半可なことではありません。そして、一人で変えていくことも無理が出てきます。自分自身、これまでの保育からの転換期というのはよく考えていかなければ難しいものがあります。私が何よりも難しいと感じたのが、自分の考えと同調するような伝え方を周りの人にどう働きかけることです。周りに大きな変化を起こすがゆえにその大きな波に乗ってもらわなければいけません。そのため、本質として目標や目的に賛同してもらわなければいけないのです。

 

工藤氏は麴町中学校の教育形態を変えることにあたって、そこにある「当たり前」の見直しを始めます。その一つが課題のリスト化です。まず初めに「学校だより」や「学校のコラム」で徹底して発信を行い、校長がどのような考えや教育感を持っているのかを保護者に理解してもらうところから始めていったそうです。そのうちに考えに共感してくれる教員や保護者、地域の方々、応援してくれるNPO法人や教育に関心を持っている企業などが増えていくことになります。

 

そして、現状をありのままに受け止めるために課題のリストを作り始めます。その内容は工藤氏と教員とで初めは200項目くらいから始まったようです。その内容は学習指導や生徒指導といったものだけではなく、鍵の管理や個人情報の書類といった事務管理のものなども含められており、リスト完成後教員と改善・解決に向かう話し合いがもたれるようになってきます。また、このリスト作りには教員のための「自律」を高めることも取り組みに入っています。校長一人がリスト作りを行うと教員からするとそのリストのあり方は「やらなければいけないもの」になってしまい、仮に指示通りに行ったとしても大きな成果にはつながらないと言います。成果につなげるには教員が主体的に課題を発見し、解決策を見つけ、取り組んでいかなければいけないというのです。

 

しかし、大変なのは意見が相反したときです。ある人は「なくしたい」と思ったことでも、違う人は「より充実させたい」と思う人もいます。しかし、工藤氏はどちらも「学校をよくしたい」という思いのもとで何か手立てはないかと考えるプロセスはとてもよかったと言います。また、課題を「見える化」することで、学校の課題を誰かに委ねるのではなく、自分たちの問題であると当事者意識が芽生えたと言います。もし、課題の中で相反した場合は「生徒たちのためになるものか?」「学校のためになるものか?」と上位目標に照らし合わせ、話し合いを行い、解決に向けた合意形成を図っていったそうです。

 

こういった活動を進めていったことで、教員の当事者意識は芽生え、工藤氏が教員の仕事を増やそうとするわけでもなく、教員の労働時間削減や本気で学校教育の充実を図ろうとしていることを理解してくれるようになったのを感じたそうです。結果赴任3年で500項目にまで膨れ上がった課題のうち350項目の改善に至ったのです。

 

そして、何より課題の解決で一番教員に意識してもらったことが「目的」に対して最適な「手段」をとることを強調することにしたのです。

 

私の場合は物事の本質をとらえなければ、解決には至らないと思っているので、できるだけ「そもそも」と考えるようにしています。そうすると多くの悩みはとてもシンプルになるような気がします。自分と相反する考えもあるがその考えも踏まえたうえで本当に幼稚園のためになるのかを考えることは常に問い続けなければいけないと思います。そして、そのためには上位目的を明確にし、それを発信し、ブレない道筋を見通していくことが必要だと考えています。

リーダー指導と教員

教育や保育をしていく中で、社会を見据えて進めることはもちろんのことですが、そのうえで社会の中でのリーダーシップを育成することも教育の目的になります。これからの社会はAIや多国籍の人との関係などグローバルな社会であり、多様性を求められる社会になります。そういった社会の中で将来生きていかなければいけない子どもたちに対して、どういたアプローチをしていく必要があるのか。

 

 

工藤氏は生徒がリーダーシップをとる際に周りの子どもたちがうまく動いてくれないことに対して、「人はそもそも動いてくれないもの」としたうえで、「動かない人が動いてこそ、本物のリーダー」と言っています。そのために人を知り、自分を知り、言葉を選び、どのタイミングで発するかといった『戦略』が必要であると言います。そして、これからの社会は多様性を認め、イライラすることなく、自分が何をすべきかを考え、適切な手段をとれることが必要になってくると言います。その反面、同質性を求め、異質な人間を排除し、教育や指導によって心を変えようとするリーダーは決して成功しないと言っています。そのためには何より教員が多様性を認め、指導のあり方を変えなければいけないのです。

 

 

というのも、生徒を指導する場において教員は「形」を重視しがちだと言います。その形というのは例えば、生徒を集めた場合「整列しなさい」「静かにしなさい」といった言葉がけです。結果として子どもたちは整列したり、静かにしたりするでしょうが、それは「うるさいから」「怒っているから」といった表面的な部分を見ているに過ぎないのです。「形」として整っていても、その本質の「静かに話を聞く」という意義の部分にはつながらないのです。

 

 

そもそも生徒に注意するにあたり、生徒が話を聞かないのは内容がつまらない場合であったり、自分との関係性が見出せなかったりするなど本質的には話し手の問題なのです。逆に内容が面白かったり、自分との関係性があり興味のあることであれば、生徒は基本的に話を聞くのです。そして、教師が注意しなくても、耳を傾け、騒いでいる生徒がいてもお互いに注意し合うのです。

 

 

大人は子どもたちに対して、「先生」という肩書がつくがゆえに理不尽な要求をしてしまっているときがあります。「子どものため」という前提をつけ、子どもたちを一人の人格者として見るのではなく、目下のように見てしまい、共感を忘れてしまいます。子どもたちは自分で学ぶ力や育つ力を持っているということを信じていれば、本質的には話し手である保育者や教育をする側の人間が子どもたちのニーズに合ったものを提供できていないのかもしれません。子どもたちにも意志があり、主体性があるということから離れてしまうと、まさに「形」を追ったものになってしまうのだと思います。

トラブルを学びに変える

子どもたちの関係の中では様々な問題やトラブルが起きます。その都度私は職員の先生たちに、トラブルを解決してあげるのではなく、トラブルの解決の仕方を伝えてあげてほしいといいます。そして、子どもたちは本来自分で問題を解決する力は持っていると子どもたちの関わりを見ていると感じます。

 

麴町中学校での生徒同士のトラブルはもちろんあるそうですが、工藤氏はそのトラブルについて「トラブルを学びにつなげる」ということを言われています。そして、その目標は「トラブルを主体的に解決させる」ことや「当事者意識を持たせる」ことが重要であると言っています。そのため、トラブルが起きたときにも「目的」の取違いに注意しなければいけないと言います。つまり、トラブルが起きた場合「仲直りさせる」ことを目的にしてしまうと教師が仲立ちに入り、相互に謝罪させるなど、表面的な和解に意識がいきがちになります。しかし、それは実のところ本質的な解決には至っていないことが多くあります。そのため、子どもたちに教師や大人が解決してくれると感じさせてはいけないと言います。周囲の大人や教師が解決してしまうと、自分で考えて解決するせっかくの機会が失われるというのです。

 

実社会では自分と人との間で意見の相違が起きることは当然のことであり、その対立が起きることはごく普通のことです。大切なことは問題を解決する力であり、その力が備わっていなければ、対立そのものを恐れて自分から意見を言えなくなってしまったり、対立が起きた時点で関係性が終ってしまったりします。そして、子どもたちは自分で解決する力を宿していると言います。では、トラブルが起きたときに大人はどうしたらいいというのでしょうか。工藤氏は大人の役割は子どもが一人で越えられないハードルに出会った時にしっかりと越えられるように支えてあげるように支援することであると言います。そして、保護者と教師が同じスタンスで、一緒に考え子どもたちに対して人生の教訓を教えるかのチャンスにすると言います。 保護者と教師が生徒の支援者として、学校を批判したりするのではなく「当事者意識」を持つことが大切だと考えます。

 

大人が表面的に解決や仲直りさせることは結果として、子どもが対立を自力で解決する力を失ってしまい。「環境のせい」だとか「周りのせい」と誰かのせいにしてしまうと言います。せっかく良かれと思って介入してしまうことがかえって「うまくいかないのはあなたのせいだ」というようになってしまうようではいけないと言っていました。

 

これは中学校の例で言われていましたが、乳幼児においても同じことが言えます。初めにも書いた通り、大切なのは解決させることではなく、解決の仕方や自分で解決することを支えてあげることが重要であるということです。そういった関係性の中で人間関係を学び、コミュニケーションの取り方を学んでいくのです。その時の大人のスタンスは介入して解決してあげることではなく、子どもたちが自分で動けるように見守ることがであり、それは中学校だけではなく、乳幼児だけでもなく、大切な距離感なのだと思います。

学校と寺子屋

工藤氏は著書「学校の当たり前をやめた」という本の中で再三、学校と社会をつなげて考えていくようにしています。実際保育においても、社会は無関係ではないですし、教育において社会を意識せず成績ばかりがすべての価値としてあるのは教育の本質としてはまさしく「目的」(社会)のために「手段」(勉強や学校)があるのではなく、手段(勉強)が目的になっているのだと思います。

 

では、社会の中ではどういった力が必要なのでしょうか。麴町中学校の工藤勇一氏は社会には「コミュニケーション能力」と「経済活動」を行うためのスキルが必要だと言っています。そのうえで、江戸時代の寺子屋の文化は非常に優秀な教育の形態だと言っています。①のカリキュラムについては「読み」「書き」「そろばん」です。これ自体は経済活動に非常に重要な知識や技能であり、武士の子どもだけではなく、商人から農民に至るまでの子どもたちが今よりも若い年齢で習得し、家計をさせていました。➁「教え方・学び方」については基本的には「自学と学び合い」です。子どもたちは学問を進めていく中で分からないところは友だちに聞いたり、教えたりしながら主体的に取り組みます。今の教育のように教師による一斉保育の形で教えられることはありません。こういった学び方は世の中の営みそのものだと工藤氏は言います。大人においても子どもにおいても本質として学ぶという過程は同じなのです。こういった主体的で対話的な学びの形態というのを中心と目指しているのが現在小学校や中学校で求められるアクティブラーニングの考え方なのです。「一方的な講義的なスタイルで座って、誰かの話を聞く」というのは当たり前ではなく、対話し、発信し、受け取り、合意形成を行うことで、物事を解決するというのが社会の形であるのだから学校においても社会の当たり前を学べなければいけないというのです。

 

こういった教育を行っていくことで江戸時代の寺子屋は私設の教育機関でしたが、就学率が高く、江戸末期は日本の識字率は高かった言われています。そして、そこで培われた技能や知識によって明治期の奇跡的な産業的発展ができたと言われています。しかし、明治以降西洋の教育制度をモデルにした一斉講義形式の授業が行われ、今の学校教育と同じような形になりましたが、その反面、実生活の営みと離れてしまい、学校に通う子どもたちの生活実態や学ぶ内容と意義を家族が認められないことがあり、就学率が低迷することになります。その要因は明治期の学校が「社会の中でよりよく生きていける」ための手段として、適切と感じられなかったからかもしれません。近年の不登校の子どもたちはもしかすると学校に行く意義を見出せなくなっている子どもがいるからかもしれないと工藤氏は言っています。

 

保育の勉強をしていくなかで、「乳幼児教育」ということはなんなのかと考えることがありました。結果として、それは社会につながる力というように思っています。事実、教育基本法には「平和的で民主的な社会の一員となる資質を備えた人材を育てる」とあります。それは「言われたことをする子ども」ではなく、「自律した子ども」を育てることでもあるのです。子どもが豊かに育ってくために教育とはどうあるべきなのか、保育とはどうなるべきなのか、手段が目的になるのではなく、しっかりと目的のために手段を考えていきたいと思います。

学校って何のためにある?

工藤氏は何度も「手段が目的化」していることにおいて廃止や見直しをする必要性を話しています。そして、現在の学校教育を見渡すと、目的の手段の不一致はもちろんのこと、手段自体が目的化されているようなケースがたくさんあることも話しています。加えて、そうした矛盾に多くの人が気付いていないか、あるいは「見て見ぬふり」をして、何らアクションを行っていないことに疑問を感じています。そして、その検証のスタート地点として「学校とは何のためにあるのか」という問いから始めます。

 

そもそも学校とは人が「社会の中でよりよく生きていける」ようになるために学ぶ場所です。そして、その結果として、学校で学んだ子どもたちが将来、「より良い社会を作る」ことにつながっていくと考えています。勘違いしてはいけないのは「学校に来る」こと自体は、社会の中でよりよく生きていけるようにするための「手段」に過ぎないということであると考えています。そのため、学校に行けなくても、学校以外にも学びの場はありますし、社会とつながることだってできるというのです。学校に来て、学習指導要領に定められたカリキュラムをこなしても、知識を丸暗記しても社会でよりよく生きていけるとは限らないのです。

 

麴町中学校でも不登校になる生徒はいるそうですが、不登校についてこう話しています。

「今、不登校に苦しんでいる子どもたちやその保護者の方々の中には、誰かを恨んでいる人がいるかもしれません。その一方で、自分自身を強く攻め続けてもいます。そうした人たちに『とにかくもう自分を責めないでほしい』『あなたは何も変わらなくていい』と伝えたいと思います。」そして、一般的に不登校になった子どもの母親は特に苦しい思いをしていると言っています。それは母親が「こうなってしまったのは自分のせい」と自分を責めているからで、その苦しみは夫や家族、他の誰かに向けられるがその影響は子どもたちに大きく影響すると言っています。子どもたちはさらに自分を責め、母親を責めることによって、自分自身を安定させようとしているかのように見えると工藤氏は言います。このような自分を責めるような状態では自律にはつながらないというのです。そして、学校の役割は子どもに学びたいという気持ちをいかに持たせるか、一人一人の学びをどのように保障するのかを考えなければいけないのであり、それができないのであれば他の方法を考えればいいというのです。

 

最近の保護者を見ているとすごく子どもに対して、園での様子もすべて知っていたいという保護者がとても多いように思います。しかし。その裏には「こうなってしまったら自分のせい」といった思いがよりすべてを知っておきたいという意識にもつながっているのかもしれません。日本はそういった意味ではとても「親信仰」が強い国だと思います。しかし、その主体は親ではなく、その子自身にあり、親の責任は本来それほどでもないのかもしれません。だからこそ、子ども本来の「生きる力」というものを信じて関わることは大切なことになってくるのだと思います。