学校って何のためにある?

工藤氏は何度も「手段が目的化」していることにおいて廃止や見直しをする必要性を話しています。そして、現在の学校教育を見渡すと、目的の手段の不一致はもちろんのこと、手段自体が目的化されているようなケースがたくさんあることも話しています。加えて、そうした矛盾に多くの人が気付いていないか、あるいは「見て見ぬふり」をして、何らアクションを行っていないことに疑問を感じています。そして、その検証のスタート地点として「学校とは何のためにあるのか」という問いから始めます。

 

そもそも学校とは人が「社会の中でよりよく生きていける」ようになるために学ぶ場所です。そして、その結果として、学校で学んだ子どもたちが将来、「より良い社会を作る」ことにつながっていくと考えています。勘違いしてはいけないのは「学校に来る」こと自体は、社会の中でよりよく生きていけるようにするための「手段」に過ぎないということであると考えています。そのため、学校に行けなくても、学校以外にも学びの場はありますし、社会とつながることだってできるというのです。学校に来て、学習指導要領に定められたカリキュラムをこなしても、知識を丸暗記しても社会でよりよく生きていけるとは限らないのです。

 

麴町中学校でも不登校になる生徒はいるそうですが、不登校についてこう話しています。

「今、不登校に苦しんでいる子どもたちやその保護者の方々の中には、誰かを恨んでいる人がいるかもしれません。その一方で、自分自身を強く攻め続けてもいます。そうした人たちに『とにかくもう自分を責めないでほしい』『あなたは何も変わらなくていい』と伝えたいと思います。」そして、一般的に不登校になった子どもの母親は特に苦しい思いをしていると言っています。それは母親が「こうなってしまったのは自分のせい」と自分を責めているからで、その苦しみは夫や家族、他の誰かに向けられるがその影響は子どもたちに大きく影響すると言っています。子どもたちはさらに自分を責め、母親を責めることによって、自分自身を安定させようとしているかのように見えると工藤氏は言います。このような自分を責めるような状態では自律にはつながらないというのです。そして、学校の役割は子どもに学びたいという気持ちをいかに持たせるか、一人一人の学びをどのように保障するのかを考えなければいけないのであり、それができないのであれば他の方法を考えればいいというのです。

 

最近の保護者を見ているとすごく子どもに対して、園での様子もすべて知っていたいという保護者がとても多いように思います。しかし。その裏には「こうなってしまったら自分のせい」といった思いがよりすべてを知っておきたいという意識にもつながっているのかもしれません。日本はそういった意味ではとても「親信仰」が強い国だと思います。しかし、その主体は親ではなく、その子自身にあり、親の責任は本来それほどでもないのかもしれません。だからこそ、子ども本来の「生きる力」というものを信じて関わることは大切なことになってくるのだと思います。