リーダー指導と教員

教育や保育をしていく中で、社会を見据えて進めることはもちろんのことですが、そのうえで社会の中でのリーダーシップを育成することも教育の目的になります。これからの社会はAIや多国籍の人との関係などグローバルな社会であり、多様性を求められる社会になります。そういった社会の中で将来生きていかなければいけない子どもたちに対して、どういたアプローチをしていく必要があるのか。

 

 

工藤氏は生徒がリーダーシップをとる際に周りの子どもたちがうまく動いてくれないことに対して、「人はそもそも動いてくれないもの」としたうえで、「動かない人が動いてこそ、本物のリーダー」と言っています。そのために人を知り、自分を知り、言葉を選び、どのタイミングで発するかといった『戦略』が必要であると言います。そして、これからの社会は多様性を認め、イライラすることなく、自分が何をすべきかを考え、適切な手段をとれることが必要になってくると言います。その反面、同質性を求め、異質な人間を排除し、教育や指導によって心を変えようとするリーダーは決して成功しないと言っています。そのためには何より教員が多様性を認め、指導のあり方を変えなければいけないのです。

 

 

というのも、生徒を指導する場において教員は「形」を重視しがちだと言います。その形というのは例えば、生徒を集めた場合「整列しなさい」「静かにしなさい」といった言葉がけです。結果として子どもたちは整列したり、静かにしたりするでしょうが、それは「うるさいから」「怒っているから」といった表面的な部分を見ているに過ぎないのです。「形」として整っていても、その本質の「静かに話を聞く」という意義の部分にはつながらないのです。

 

 

そもそも生徒に注意するにあたり、生徒が話を聞かないのは内容がつまらない場合であったり、自分との関係性が見出せなかったりするなど本質的には話し手の問題なのです。逆に内容が面白かったり、自分との関係性があり興味のあることであれば、生徒は基本的に話を聞くのです。そして、教師が注意しなくても、耳を傾け、騒いでいる生徒がいてもお互いに注意し合うのです。

 

 

大人は子どもたちに対して、「先生」という肩書がつくがゆえに理不尽な要求をしてしまっているときがあります。「子どものため」という前提をつけ、子どもたちを一人の人格者として見るのではなく、目下のように見てしまい、共感を忘れてしまいます。子どもたちは自分で学ぶ力や育つ力を持っているということを信じていれば、本質的には話し手である保育者や教育をする側の人間が子どもたちのニーズに合ったものを提供できていないのかもしれません。子どもたちにも意志があり、主体性があるということから離れてしまうと、まさに「形」を追ったものになってしまうのだと思います。