5月2021

記憶の因果関係①

エピソード記憶のうち、自分の体験したことの記憶である自伝的記憶は、自己同一性、つまり、自分を客観的に見ることや自分がどう思っているかを自覚することなどといったものに非常に重要な役目を果たします。過去と未来の自分が連続していると感じるのは、特性が変わらないからではなく、同じ体を持つからでもありません。鍵を握っているのは「記憶」です。自分の過去に起きた記憶は紛れもなく「自分のもの」であり、他人の記憶とはっきりと弁別できるものです。仮に他の人が、かつて自分と同じ考えや思い込みを持っていて、そのことを自分が知っていたとしても、その他者の記憶は自分の記憶とは別物であります。

 

哲学者のジョン・キャンベルは、自伝的記憶の意識体験は、過去、現在、未来の自分の間にある因果関係に依存すると言っています。大人は、自分の人生を過去、現在、未来の体験を因果で結んだ一つのつながりの物語として捉えているというのです。自分が将来すること、感じること、信じることは、現在していること、感じること、信じることに左右され、それはさらに過去にしたこと、感じたこと、信じたことに左右されるというように考えるのです。人生が一本の時系列であるとのは疑う余地がないように思えます。

 

ところが、このような因果関係的には構成されない意識体験もあります。たとえば、解離性障害、つまり多重人格であれば、複数の自分事に違った時系列があります。同じ体で起こる体験であっても、Aの人格であるときにはAの未来に関わるが、Bの人格のときには影響がおきません。

 

では、赤ちゃんに至ってはどうでしょうか。自我の感覚というのはごく幼いうちに芽生えます。たとえば、1歳半ぐらいで鏡の中の自分を認識できるようになると言われています。これは、シールを使った実験で行われており、赤ちゃんの頭にこっそりシールを貼って鏡の前に連れて行くと分かります。1歳児は誰か別の赤ちゃんが鏡の中にいるかのように振る舞って、鏡に映ったシールを指さします。しかし、これが2歳児だとすぐに自分のおでこを触り、シールがあるか確かめたのです。

 

しかし、まだ、この頃であっても、現在の自分が過去や未来の自分とどう関係するかまではわかっていないようです。これらが時系列で結ばれていないのです。確かに、赤ちゃんにトラブルになった後に「なんでこうなったかわかる?」と聞いても分かってはいません。

 

このことをテレサ・マコーマックは、子どもに2組の絵を2日間に分けて見せ、そのあと、見たことのある絵はどれか、それは今日見た絵か、昨日見た絵か、と尋ねました。すると、三歳児は見たことのある絵がどれかはよく覚えていましたが、いつ見たかという質問にはよく答えられませんでした。ところが、6歳児では、大人と同じ程度に、どちらの日に見た絵かを判別することができたのです。

 

これとは別にダニー・ポヴェネリが行ったビデオを使った成長記録ビデオを使った実験ではもっと劇的な結果が記されています。

記憶

子どもが暗示にかかりやすいのは、情報そのものの真偽というより、情報の出所が見極められないことから生じていると言われています。そこで、ゴプニックたちは子どもの被暗示性が記憶の出所の理解に関係があることを確かめる実験をおこないました。

 

まず、子どもに映画を見せ、その後色々な質問をしたのです。その一部は記憶の出所に関するもので、「その男の子が黄色い長靴を持っているのを、なぜ知っているの?映画会で見たから?その子がそう言ったから?」などと質問します。これとは別に、被暗示性を調べるための誘導質問も行いました。たとえば、映画に出てくる長靴は黄色ですが、わざと「その子は赤い長靴を持っていなかった?」と聞いてみます。すると記憶の出所をよく覚えている子ほど、誘導尋問に乗りにくいことが分かったのです。出所がはっきりと分かっていれば、4歳の子でも誘導尋問には乗らなかったのです。

ところが、3歳児は自分の信念が何に由来するのかも、以前の自分はどう思っていたかも、よく思い出せません。これは以前紹介した「誤信念」の実験からでもわかると言います。キャンディの箱を開けたら鉛筆が出てきたのをみて、子どもは驚き、がっかりします。ところがそのあと、「箱には何が入っていると思う?」と聞くと、たった今予想外の事実にびっくりしたにも関わらず、鉛筆と答えたのです。ほんの少し前に抱いた信念をきれいさっぱり忘れてしまったのです。

 

この実験を通して、さらに幼児は過去の信念だけでなく、過去の願望も忘れてしまうのかも確かめる実験をゴプニックは行います。まず、子どもにクラッカーが欲しいかどうかを尋ね、欲しいと言ったら、お腹いっぱいになるまでクラッカーをあげました。そのあと、クラッカーを食べるまえ、ここに座ったときは、クラッカーが欲しかったかと聞きました。すると三歳児の半数は「ううん、全然」と答えたのです。これにより、過去の物理的な出来事はすぐ思い出せるのに、その出来事について自分が何を感じたかは、あまりよく覚えていないということが見えてきたのです。

 

クラッカーにしても、鉛筆にしても、目の前で見て、体験しているのです。しかし、そのわずか数分後にはきれいさっぱり忘れてしまっているのです。直前の意識体験なのだから明らかであり、忘れるはずがないにもかかわらず、数分前に起こった体験を思い出せないのです。

 

これと同じようなことは大人でも起きます。たとえば、だいぶ月日が経ってから同じ間違いを犯すことがあったりします。あとになって記憶を都合よく作り変えてしまうことがあります。子どもの場合はそれがたったの数分のうちに起こるのですから、やはり子どもの住んでいる世界は、大人の世界とはだいぶ違うのではないかとゴプニックは考えています。

 

子どもたちの記憶はわりと刹那的に解釈されているのですね。大人は未来にも過去にも意識や記憶や見通しをもって生活します。それに比べ、子どもたちの記憶は実に「現在」にフォーカスが当たっているように思います。つまり、そこにある現実をしっかりと記憶し、注意し、情報を取り込んでいるのでしょう。見方を変えて、子どもたちの様子を考えていくと、子どもたちは「今」をまさに生きているのですね。

出典健忘

自分の体験を基にしたエピソード記憶(自伝的記憶)にはたくさんある記憶を思いうかべる自動再生(フリーコール)と幼稚園などの出来事を書いた連絡帳をもとに記憶を想起するように出来事の手掛かりを使って記憶を呼び起こす外因的なものがありました。ゴプニックはそれ以外にもエピソード記憶にはもう一つ特徴があると言っています。それは「ある出来事を単に知っているのではなく、それを知った経緯も知っている」ということです。それはどういったことかというと、「記憶は過去の具体的な体験に由来することを本人が知っているか、少なくともそう信じているか」ということであるとゴプニックは言っています。

 

脳損傷でエピソード記憶を失った人は、知識をどうして得たかを思い出せなくなります。コンピューターのプログラムが書けるようになっても、それをどうやって覚えたのか説明できないのです。脳損傷が軽く、新しい記憶をわずかに作れる人も、その記憶の由来を思い出すことは相当に困難です。

 

では、幼い子供であるとどうなのでしょうか。これについてゴプニックはごく幼い子どもも、自分の信念の由来をよく思い出せないと言っています。このことについてゴプニックは実験をおこないました。段ごとに鉛筆や卵など9種類の品物を入れた小さな引き出しを子どもに見せました。ある引き出しは、「あけて中を見せます。」ある引き出しは「この引き出しには鉛筆が入っています」と言うだけで開けません。またある引き出しはやはり開けずに「何が入っているでしょう。ヒントは、卵ケースに入っているものです」と言います。それから引き出しを全部閉め、一つずつ指差しながら、次のように質問を続けてします。「ここには何が入っているかしら?」「どうしてわかったの? それを見たから? 私が教えたから? それともヒントから?」と聞きます。すると、子どもたちはみな、引き出しの中身を覚えていました。ところが3歳児はその理由がなかなか思い出せず、見てもいない引き出しの中の卵を見たとか、その反対を言うことがよくありました。これに対し、5歳児では中身を知っている理由も正しく答えられたのです。

 

このように「出典健忘」があるために、子どもは暗示にかかりやすいという特徴があります。司法の場でも問題になっているのが、子どもたちに「あの人に触られたんでしょう?」と聞かれると幼児は実際に信じかねないということがあるのです。このような子どもの被暗示性は、かつては真実と嘘、事実と空想の区別がつかないせいだとされていました。でも、これは違うようです。子どもが暗示にかかりやすいのは、情報そのものの真偽というより、情報の出所が見極められないところから生じています。出所が判明できないために、幼稚園でのうわさ話や、誘導質問から推論したことを、本物の記憶と混同してしまうのでしょうとゴプニックは言っています。

 

これはよくよく気を付けなければいけません。保育の中でも、例えば喧嘩等の対応する時に大人が先入観を持って見てしまうと5歳までの子どもたちの記憶に対して、暗示的に操作しかねないのです。聞き出そうとするにしても、誘導尋問的な話し方は子どもたちにとって記憶を変えかねないというのはしっかりと意識していないといけないですね。

記憶の内因性と外因性

2歳児に対して、動物園の記憶を実験者がそこで起こった出来事を聞いてみるという実験しました。すると、2歳児はその子自身の記憶であると同時に、母親の記憶のものとしても答えました。これと同じ実験を条件をコントロールして行ってみると、3歳とそれ以上とでは、記憶の種類が違っているらしいことが分かってきました。

 

たとえば、もし「27日の夜はどこにいましたか?」と言ったことを大人が聞かれると、過去数日間のエピソード記憶をたどり、その夜の記憶にたどり着きます。その日の出来事を回想するときには、たくさんある記憶の細部を想起します。このような記憶の再生法を自由再生(フリーコール)といいます。

 

一方、「27日の夜、そのバーで、黒いフェルト帽をかぶり、バイオリンケースを持った男を見ましたか?」と尋ねられた時のように、ある手がかりをきっかけにして再生される記憶もあります。これもエピソード記憶の一種ではありますが、心の中で自由再生されるのではなく、外から促されなければ再生されるものではありません。ここでいう「促す」というのは、母親が2歳児に動物園の象の様子を思い出させたり、商店街で迷子になったいきさつを大学生に実験的に「思い出させる」ように、真偽に関わらず直接答えを与えるのとは違い、あくまで記憶を思い出させる「手がかり」を与えるということです。この場合、再生される情報は本物なのですが、手掛かりがないと引き出せないのです。

 

このように自動再生のように記憶の再生が起こることと、手掛かりをもとに記憶が再生される仕方と2種類あります。これは注意に内因性注意と外因性注意とがあるのに似ています。記憶においても、内因性と外因性によって左右されるのです。

 

他にも単語リストを見せ、後でそれを自由に思い出してもらうのと、ある単語を教え、それを手掛かりに次の単語を思い出してもらうの土手は、後者の手掛かりを与えられる方が自由再生より多くの単語を思い出せます。特に幼稚園児では、その差が一段と大きくなるようです。この時期の幼児は手がかりさえあれば、極めて詳細な記憶を再生できますが、自由再生はうまくできません。

 

このことについてゴプニックは幼稚園児に「今日、なにしたの?」と聞くと「別に」とか「遊んだよ」というくらいで、なかなか詳しく教えてくれないのではないかと話しています。確かに、終わりの会で「今日は何が楽しかった?」と聞いても、割と大まかなことがらしか上がってこず、詳しく聞いても、「う~ん」と困ってしまう子どもは多いように思います。しかし、そこで起きた出来事を話して見たり、「こんなこともあったじゃない」と多少の手掛かりを与えると、答えが広がっていきます。しかし、だからといって全体の記憶が想起されたのではなく、それを手掛かりにした限定的な記憶であるのは確かですね。なるほど、子どもたちの記憶を想起させる方法においても、どれほどの記憶の引き出しがあるのか、幼児においてはどういった思考で記憶が思い出されるのかとても考えさせられます。

子どものエピソード記憶

前回までの内容のように、子どもたちの頭の中でエピソード記憶というのは起きているのでしょうか。ゴプニックは赤ちゃんでもエピソード記憶を持つことがありますが。それは大人のエピソード記憶とは少し性質が異なると言っています。そして、大人と同じようなエピソード記憶と似たものができるようになるのは5歳ぐらいで、これとは並行して内部意識のほうも変化していくと言っています。

 

これまで心理学者の中では赤ちゃんはエピソード記憶は持たないと考えられていました。しかし、赤ちゃんでも特定の出来事については赤ちゃんも具体的に記憶できていると実験によってわかってきたのです。その実験では、実験者が箱におでこをつけると箱が光るという場面を赤ちゃんに一回だけ見せておきます。そして、1か月後、同じ赤ちゃんに再びその箱を見せると、赤ちゃんは前かがみになり、おでこを箱につけるのです。つまり、一カ月前の出来事をはっきりと記憶していたのです。

 

他にも、よちよち歩きができるようになった1、2歳の子は、過去の具体的な出来事を言葉で示すこともできます。ゴプニックの息子が、1歳半のとき、訪ねてきた祖母と、ある晩、夜空の星や月を眺めていました。1か月後、祖母がまたやってくると、まだ昼間なのに「月」と叫んで、その腕を引っ張り、外に連れ出そうとしたのです。1ヶ月前に体験した出来事を思い出し、また、その行動をしたいと思いだしたのです。

 

ロビン・フィバッシュは、母親と一緒に動物園へと行く子どもの日常のひとこまを記録し、数日後、その子にそこでの出来事を聞いてみました。すると、2歳児は「象がウンチをしていたよ」などと非常に具体的なことを答えるのでした。ところが、その子が答えた内容は、動物園で母親の口から出たことをほぼそっくり引き写したもので、母親が言ったこと以外のことは覚えていなかったのです。ゴプニックはエピソード記憶はあくまで、自分の体験した自分だけのもので、他の人の記憶ではないと言います。そうすると2歳児のエピソード記憶はその子自身の記憶であると同時に、母親の記憶でもあったのです。これが5歳の子では、体験した複雑な出来事を記憶し、自分の言葉で答えられるようになります。

 

これと同じ実験をさらに条件をコントロールして行ってみると、3歳とそれ以上とでは、記憶の種類が違っているらしいことが分かってきました。

 

赤ちゃんのような幼い子どもでも、人の顔を覚えることや物を覚えることがあります。当然そういった記憶力があるというのは子どもを見ていなくても、誰しもが分かっていることです。しかし、エピソード記憶のような自分の体験を記憶するということも改めて考えると、わかってはいても、それほど複雑な記憶を駆使しているということに驚きます。