12月2020

生きる力と問題解決能力

前回も紹介したように「生きる力」とは「変化が激しく、新しい未知の課題に試行錯誤しながらも対応することが求められる複雑で難しい時代を担う子どもたちにとって、将来の職業や生活を通して、社会において自立的に生きるために必要とされる力」とされています。そして、その「生きる力」を育成するにあたっては、他者、自然、社会との関わりの中で意欲を育むことや、体験活動を充実させること、コミュニケーションの基礎となる言語活動など、実際に社会を生きていく力として必要な資質を育てていくことが重視されていると平成23年(2011年)の中教審答申で言われています。

 

齋藤氏は「根本的な考え方としては、現存の各教科の重要性を認めつつ、現実の社会に対応できる力、現代の社会を生き抜く実践力を身につけることが狙いとされている。具体的には、人間関係形成・社会形成能力(多様な他者の考えや立場を理解し、自分の考えを伝えることができるとともに、他者と協同して社会に参画し、社会を形成していく力)、自己理解・自己観管理能力(自己の可能性や希望について肯定的に理解し、主体的に行動しつつ、社会との相互関係を保ち自らの思考や感情を律する力)、課題対応能力(自ら課題を発見し、課題処理のために計画立案し解決する力)、キャリアプランニング能力(『働くこと』の意義を理解し、情報を取捨選択しながら主体的にキャリアを形成していく力)といった能力が社会に対応できる力であるとされる。」と言っています。

 

この4つの能力は略していくと、人と関わって社会を作る力、自己実現に向けて自分と向き合う力、課題を発見し計画立案と解決する力、主体的に情報を取り入れながらキャリアを形成していく力、これらの力が社会で必要とされているのです。そして、そのどれにも共通するのことが「主体的である」ことです。自らが関わり、自らが向き合い、解決し、情報を取り入れる。「自ら学び自ら考える力」がこれらの学習観がこれからの学習観であるというのです。

 

そして、平成10年の指導要領には「基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむ」「主体的に学習に取り組む態度を養い、個性を生かす」「学習習慣が確立するよう配慮」という「新しい学習観」を規定するようになり、これまでの知識偏重型であり、暗記を中心とした「伝統的な学力」の育成では得られなかった「問題解決能力」が共通の目的となったのです。

 

OECDにおいてもこの「問題解決能力」は考えられており、PISAの2012年の調査では「問題解決能力とは、解決の方法がすぐには分からない問題状況を理解し、問題解決のために、認知的プロセスに関わろうとする個人の能力であり、そこには建設的で思慮深い一市民として、個人の可能性を実現するために、自ら進んで問題状況に関わろうとする意志も含まれる」と定義されており、問題解決に向かう意欲それ自体が能力とされています。以前紹介したアンドレアス・シュライヒャー氏も著書の中で「協同的問題解決能力」について話していました。それほど「問題解決能力」は今の時代非常に重要になってきていると考えられているのです。では、この問題解決能力はより具体的にどういった力と言えるのでしょうか。

新しい学力観から生きる力へ

「新しい学力観」に変化する大きなきっかけとなったのは、平成元年(1989年)の文部省が示した学習指導要領の改訂において、「学力は何か」について「新しい学力観」を提唱しました。それでは教科書を丸暗記すれば満点が取れる「記憶力中心の知識偏重の教育」と対比すべきものとして、「自ら学ぶ意欲の育成や思考力、判断力などの育成に重点を置く」学力観が提唱されたのです。

 

文部省によるとその背景には、社会の変化に対応できる人間を育てたいという意図があるというのです。情報化、国際化、価値観の多様化、核家族化、高齢化など、現在の社会は大きな変化に直面しており、これにともなって子ども自身の生活や意識も変化して生きている。これらの変化に対応する力を学力として位置付けたいということがあるのです。

 

そして、評価の観点としては、自ら学ぶ意欲、思考力、表現力、判断力などが重視される。そして、各科目の評価にあたっては「関心・意欲・態度」「思考・判断」「知識・理解」といった観点別に学習状況を評価することが目指されるようになったのです。

 

そして、平成八年(1996年)の中教審答申「二十一世紀を展望した我が国の教育の在り方について」で「生きる力」が使われるようになります。この生きる力は変化の激しい社会を担う子どもたちに必要な力であり、それは「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他者と共に協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性」や、「たくましく生きるための健康や体力」を備えたものであるとされているのです。そして、この「生きる力」の育成が学校教育の基本におかれるようになったのです。そして、この理念は法的にも明確にされるようになりました。

 

「生きる力」は乳幼児教育でも、出てくるキーワードです。その根底にはやはり社会の変化によることで、教育の変革が求められるようになったからなのです。こう学力観の変遷を見ていると平成元年(1989年)にはもうすでに、こういった社会の変遷を想定された学習の変化の兆しは始まっていたのですね。この「生きる力」の育成が学校教育の基本におかれるようになり、平成一八年(2006年)改正の教育基本法では、あらたに「知・徳・体の育成」や「個人の自律」、「他者や社会との関係」「自然や環境との関係」「日本の伝統や文化を基盤として国際社会を生きる日本人」という観点から教育の目標を新たに定めています。

 

そして、平成一九年(2007年)改正の学校教育法では、「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に異を用いなければならない」と規定されるようになったのです。

 

こうして、法律的に見直された「学力」概念において①基礎的・基本的な知識・技能 ②知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力 ③学習意欲 の三要素が主要な構成要素となってくるのです。

これまでの学力・これからの学力

これからの社会において、必要とされる能力というのは大きく違ってきているということはこれまでの内容でも話してきました。それにおうじて、学校生活で身につける学力もどうやら大きく変わってくることが見えてきます。では、日本において、「新しい学力」というのはどのように捉えられるのでしょうか。明治大学教授の齋藤孝さんは著書「新しい学力」(岩波書店)の中で、「『学力を伸ばす』ことによって目指すべき『目標』が変わってくる』といっています。そして、それはこれからの社会では「伝統的な学力」から「問題解決型」の能力を中心としたものへ変わっていくのではないかというのです。

 

では、その「伝統的な学力」とはどういったことを言うのでしょうか。このことについて齋藤氏は「伝統的な学力とは知識重視・暗記中心型の学力」を指して言っています。これに対して、これからの学力とされることを「二十一世紀型学力」と呼ばれているそうですが、これは「日常生活や仕事において、それぞれの人が日々出会う『課題』を解決するために必要な、思考力・表現力・判断力等を主とする力」を指しているのです。このことについては前回のアンドレス氏の著書においても、同様のことが言われていましたね。アンドレアス氏も「協同的問題解決能力」が今後必要になってくると言っていました。

 

この「新しい学力」がなぜ必要となってくるのか、斎藤氏は「社会全体がグローバル化し、変化が厳しくなる中で、柔軟な思考力で課題に対応し、自らの発想によって意欲的に道を切り開く、そんな人材を育てることが主眼となってきているといえよう」といっています。

 

この視点は保育や教育をするものとしては深く考えなければいけないのではないかといつも考えています。というのも、つい私も含めですが、日々の行事や活動に追われ、バタバタし中で保育を進めてしまうことがあり、「なぜ、保育が必要なのか?」といったことや「教育が必要とされるのか?」ということを忘れてしまうことがあります。「なんのために?」という大きな目標を見失ってしまうと、本来の意図が意味を成してきません。では、実際のところ何のために教育や保育はあるのかというと齋藤氏のいう「人材を育てること」にあるのだと思います。

 

この今の社会を支えるのは今、保育や教育を受ける子どもたちなのです。割と普段保育をしているとそういった根本的な目的を忘れがちなってしまうことが多いように思います。しかし、これは真実であり、意識をしておかなければいけません。新宿せいが保育園の藤森平司先生は「保育は30年後に結果が出ます。だから、30年後の社会を予測して保育していかなければいけません」とおっしゃっています。私もそう思い保育をしたり、先を予測していくように考えなければいけないと思います。

新しい学力

PISAの学力調査の立ち上げたアンドレアス・シュライヒャー氏の著書を通して見てきましたが、これまでの話を見ていても、どうやらこれからの教育というのはこれまでのものとは大きく変わってくるということが言えるのでしょう。何よりも、社会の中で大きく変わってくるというのが技術革新です。AIの発展により、これまでの知識を覚えるということはデジタルメディアによってとって代わられることになります。情報はより多様にわたり、情報のスピードもかなり速くなってきます。そういった中で必要になってくるのが、その多い情報を処理し、正確な情報を取り出す力です。そして、その正確な情報を次の新たな技術や新たな産業に取り込んでいかなければいけません。そうしていかなければ、これからの情報化社会の中では発展していくことができないのです。知識を持っていることは重要な能力ではなくなるのです。それよりも、そういった知識を生かすことが必要になるのです。

 

そのために、「新たな学力」を模索していかなければいけません。これまでとは大きく違ってきた価値観が求められます。当然、このことは学校教育だけの話ではなく、乳幼児教育においても、同様に言えることだと思います。私は常々学校教育が変わるためには乳幼児教育から変えていかなければいけないと感じています。学校教育に向けて、その土台を作っていかなければいけないのです。しかし、この「土台」という言葉はしばしば勘違いされることがあります。それは「小学校の先取り」のように小学校でするであろう内容を保育の中に取り込んでしまうことです。たとえば、50音や英語教育、こういったものが「英才教育」のように捉えられ、取り入れられることも多くあります。このことに対して、さまざまな園で、さまざまな考えや価値観があるので、言及は避けますが、私の考えとしては、もう少し子どもの教育や保育を「発達ベースで見るべきではないか」と思うのです。

 

「子どもたちはやらせればできる」と言われることがあります。確かにその通りです。教え込むことでできることはあるでしょう。しかし、それがその子にとって「本当にやりたいことなのか」と言われるとそうではないことが多いです。「いろんなことをやらせる中で好きなことも見つかるかもしれない」と言われることもあります。しかし、では、そのいろんなことをする中で好きなことが見つかるかもしれませんが、その反面、その一つを見つけるために多くのものが嫌いになってしまう可能性もあるのです。

 

これは極論かもしれません。すべての子どもにこの考えが当てはまらないかもしれません。すべてのことが好きになるかもしれません。しかし、それは自分で選んだものでもなく、いわゆる他律です。自分で選んだものではないのです。ではなんでも自分で選んだことはどんな選択でも、何しても良いのかと言われるとそれも違います。ただ、それは「何でもいい」ということではありません。大切なのことは自分で選んだことには「責任」があるということです。自分で選び、自分で責任を持つことで、初めて自分を知ることになります。

 

大切なのは「自分で気づく経験」が自律につながることだと思っています。これからの社会では、アンドレス氏がいうように関連付けたり、イノベーションを起こすことが重要な時代になります。そういった時代において、教育や保育はより重要な意味合いが求められてくるだろうと思います。そして、その重要性はこれまでの教育という部分からより、人間性における人格といったところを中心とした教育や保育に視点が送られていくのだろうと思います。

教育の進まない理由

アンドレアス氏は「教育のイノベーションの水準は、他の経済分野とほぼ一致する」といっています。ただ問題はそのイノベーションは起こせばいいという量の問題ではなく、質や妥当性、アイデアの効果を発揮するスピードが重要になってきます。今の時代でも、イノベーションは起きてはいますが、学習中心に焦点があっておらず、遅々として進んでいないとアンドレアス氏は言っています。では、その欠点はどこにあるのでしょうか。

 

一つは「柔軟性とイノベーションを公平に担保しながら両立すること」それは学校それぞれの自律性や多様性を高め、教育機関の競争を増やすことが挙げられるということです。これはそれぞれの学校に裁量を持たせ、意思決定を現場に持たせることが挙げれられます。これは結果として、各学校の競争意識につながる場合もあり、難しいところです。そのため、この方法が効果があるのかはまだ確証はないそうです。確かに営利目的になり始めると教育の性質とは離れていってしまいます。また、この動きに関しては政府の動きも重要になってきます。アンドレアス氏は学校の自律性、と地方分権、よりニーズに基づいた学校制度の拡大が求められると言っています。そのため、中央政府と地方自治体の協働があって、学校選択がより多くの生徒に恩恵を与えるようになるのです。

 

つぎにガバナンスのイノベーションです。アンドレアス氏は教育において、ホワイトボードやコンピューターなど新しい方法を導入してきましたが、それが他分野でのイノベーションに追いついたかどうかは定かではないと言っています。現にアンドレアス氏は教育が他分野でのイノベーションに追いついていないことを自問してきたというのです。そして、これについて、政府、学会、教科書会社の現在のビジネスモデルを破壊する以外にもっともな答えを見出すことができなかったといっています。

 

しかし、より大きな問題は、たとえ、優れた教育研究や知識が存在しても、多くの教員は彼らが直面する問題が科学と研究によって解決できると信じていない点であるとアンドレアス氏は言います。「あまりに多くの教員が、良い授業はインスピレーションと才能に基づく個人的なアートであり、職業人生を通じて向上していくスキルではないと信じている。」というのです。それは教員だけのせいではなく、教員の知識やノウハウを体系化する報償や奨励、そういった積み重ねた資源などが不足しているため、この問題は政策にさかのぼる必要もあるというのです。というのも、「多くの国では、教育以外の労働時間の余地が少なく、教員は知識創造に取り組むことができない。他の専門職とは異なり、実践者のための専門機関あるいは科学的な共通言語さえも構築することができなかったので、教育実践はあいまいなまま可視化されず、孤立しており、伝承が難しいままである。より良い知識に投資し、広い普及することを優先すべきである。」というのです。