12月2020

家庭でのアクティブラーニング

齋藤氏は生活の中の教育はほかにもあると言っています。それは「段取り力」と「コミュニケーション力」です。「段取り力」は「問題を解く」「料理をする」「物語を作る」などの場合でも、必要とされる力です。そして、この力は学校だけではなく、生活のあらゆるところで鍛えることができる実践的な知力でもあると言っています。

 

この「段取り力」ですが、これはつまり「問題解決能力」でもあります。苦手なことをどうすれば解決でき、その解決策の道筋をどう設定し、解決へと導いていくのかを考える力です。齋藤氏は「こうした問題意識の持ち方、解決の段取りを立てるプロセスをじっくり持てるのは、個々の子どもと向き合える家庭教育の良さである」といっています。

 

そして、それと同時に得ることができるのが「コミュニケーション能力」です。親子との対話を中心とした問題解決能力の向上は、コミュニケーション能力の向上にも役に立ちます。話をしながら問題をはっきりとさせ、解決策を出し合う。こうしたコミュニケーションの練習にもなるのです。齋藤氏は「コミュニケーション力は、子どものみならず社会で働く大人にとっても重要な能力である。他者と協働し問題解決に向かうのが企業にとって必須であるとするならば、その基礎になるのがコミュニケーション力である」といっています。

 

これらの力は教科書を記憶し、テストで記憶の再生を行う作業ではコミュニケーション力は必要とされません。これは伝統的な学力ではコミュニケーション力は重要とされていないということを意味しています。しかし、実社会ではコミュニケーション力が求められます。この差を埋めるのがアクティブラーニングでもあるのです。

 

こう見ると、家庭との連携の大切さが改めてわかります。保育施設で起こるコミュニケーションと家庭内で起きるコミュニケーションとはまた違った関係性が生まれてくることが見えてきます。しかし、そのどちらも重要なことは「自分で考える」つまり「主体的」ということが根本になければいけません。齋藤氏が言うように「話をしながら問題をはっきりとさせ、解決策を出し合う」ということが重要なのです。そこには子ども自身の意見も反映されてこなければいけない、でなければ「対話」にならないのです。自分自身で納得した解決方法を自らで設定し、自らその解決法を実践していくということが大切になってきます。

 

よく保育の中で、「選択には責任がある」という話を言うことがあります。ただ、選ばせるだけではいけなく、そこには「責任」があることで子どもたちは自分の選択に向き合い、慎重に考え、答えを選ぶのです。大人が選ばせてしまうと、その責任は大人の方が主体になってしまうのです。そのため、いかに子ども自身に当事者意識を持てるようにするかが大切なのです。大人はあくまでも子どもたちにとってフォローする側であり、アドバイスは必要ですが、主体を大人が取ることはもったいないことだということを意識していなければいけません。このことを前提にすることがアクティブラーニングでも重要な視点でもあるのです。

意欲と対話

齋藤氏は「新しい学力観」の中心に置かれているのは「意欲」だと言っています。意欲があり、チャレンジしてみようとする姿勢は国際的にも評価されるというのです。課題に対し何とかしてみようという意欲が国際的にも認められ、人物の優秀さを見る時の共通理解になっているというのです。真面目に勉強していても、グループディスカッションになると積極的に発言しなくなると、消極的と見られません。遠慮ばかりしていると意欲がないと誤解されかねないのです。

 

齋藤氏も大学で教えていると十分な準備があるのに前に出ようとしない学生が多いと感じるそうです。「クラスで発表するのは緊張するし、自分の意見は大したことがないと遠慮してしまう。だが、半強制的に発表させると、学生は発表に慣れてくる。そして、発表への簡素嘘を聞くことが次第に快感になり、より発表したいと思うようになる」といっています。そして、自分の意見を伝えるのが面白いと思うようになれば、アクティブ・ラーニングの回路が完成するのです。主体的な学びを活気づけるのは発表であり、相手が反応することで、次の発表へのモチベーションになるのです。

 

これは家庭でも同様のことが言えるそうです。家庭の中でアクティブ・ラーニングをするのです。たとえば、テレビのニュースを親子で見ているとき、親に知識があれば、ニュースについて解説し、子どもに対して問いを投げかけ、子どもの意見を求めることができるのです。ただ、漠然と漫然とニュースを見るのではなく、共通のテキストを使って、親が問題を設定するのです。

 

大切なのは様々な考え方をしり、対話することが、子どもの新しい学力を育てるのです。そういった意味では学校よりも家庭の方が学力を伸ばす場として適しているともいえるのではないかと齋藤氏は言っています。

 

先日、生活発表会を幼稚園でしました。そこでは、子どもたちが劇遊びを発表しています。面白いのが、セリフの決め方です。「子どもと決める」といっても、特定の子どもを中心にセリフを決めると、保育者が台本を決めたのとかわりません。結果的に子どもたちも「覚える」作業になり、なかなか声が大きくならない。一方で、シーンごとで登場する子どもたちそれぞれにセリフを考えてもらい、それぞれのシーンをつなげていくと劇の中でのセリフの声は大きくなります。これは子どもたちが台本作りに参画することで、主体的に関わる環境があるということ、そして、自分が決めるということで、齋藤氏の言うように発表の場がポジティブになっていくということが自信を持ってセリフを言えるようになることにつながっているのかもしれません。こういった発表会の取り組みの中でもアクティブ・ラーニングの場はあり、学校教育の現場だけではなく、保育現場の中においてもたくさんの学ぶ場があるのだということが分かります。対話の経験というのは、時間がかかります。そして、大人の余裕や学ぶ場の作り方が非常に重要になってきます。一つの活動に合わせて、どういった関わりを持たせる必要があるのか、そこにどういった意図を乗せて考えるのか、そういった目標をしっかりと持つことが教育者や保育者に必要な視点なのだろうと改めて感じました。

アクティブラーニングとリーダーシップ

前回、齋藤氏が著書の中で言っていた。アクティブラーニングを行うための3つの視点「深い学び」「対話的な学び」「主体的な学び」を遂げるにはどういったことを重視していけばいいのでしょうか。齋藤氏はその一つに「課題設定の重要性」を挙げています。

 

課題設定が明確でなければ「なぜそうなるのか、どうすれば解決できるのか」を考える思考が進まないのです。当然ですね。何を考えなければいけないのかが曖昧なのですから考えようがありません。しかし、その一方で、課題があまりに具体的で一問一答であるのも思考に深みが生まれないというのです。これは今までの暗記形式の授業と重なります。覚えることをアウトプットするという意味では思考は生まれますが、だからといって、それが本質として使われるのかというとそうではなく、どちらかというと作業的な思考になります。

 

このように問いかけ、課題の設定は教師の腕の見せ所でもあるのです。理想となるのは「課題が終わったら、その結果を踏まえ次の課題に向かう。そして、その課題は子どもたちが発見する」ということだと齋藤氏は言います。そのために、教師が誘導するのも授業の活性化には実際のところ必要なのです。そして、ここで重要になってくるのが、指導する側は「ほかの学生の発表に対するコメントをポジティブなものにするように求めること」に注意しなければならないと齋藤氏は言います。なぜなら、否定的な場面であると、準備自体も報われなく、モチベーションも下がってしまいます。まずはプレゼンテーションでよかった点を褒めることが重要になってきます。つまり、ポジティブな方向に改善するようなコメントをしていくことが求められるのです。そうすることで、発表者は前向きになり、雰囲気も明るくなり、それが次の課題に向かうプロセスの起爆剤ともなるのです。

 

この一連のプロセスは何もアクティブラーニングのためだけのものではないと思います。この活性化する流れであったり、課題設定であるというのはどの場においても、重要なものであります。ともすれば、これは企業や会社、それぞれの組織においても、必要な環境構成のプロセスではないでしょうか。実に経営者的な視点であったり、リーダーシップ的なものの見方がアクティブラーニングに求められるというのは非常に興味深く感じます。

 

よく私は「場が人を育てる」という言葉を言います。学ぶことや自分からやろうとする意識というのは「やれ」と言われてできるものではありません。やろうと思わなければできないのです。つまり、「主体的な活動」はもしかすると「場」によって起きるものなのかもしれないのです。そして、そのためにはリーダーがやる気を見せたり、考えを発信したりすることが重要になってきます。そういった意味では、子どもたちのリーダーである教師であtったり、保育者である先生はより、明確な意図や課題を持っていなければいけないのだろうと思います。世の中にリーダーシップという言葉が出てきますが、それは何も会社や企業だけではなく、教育においても必要とされる資質なのでしょう。

学び方

新しい学力観をもとに2020年から2030年にかけて、教育改革が行われていくと言われています。その一つが「アクティブラーニング」です。このアクティブラーニングは「課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び」と定義されており、学習内容それ自体ではなく、子どもたちの「学び方」に着目した概念です。それは「基本的な知識の習得を前提としたうえで、具体的な課題の発見・解決を通じて思考力・表現力・判断力を磨くことが目的である。そうすることで、既存の知識や技能が新しい形で体系化され、自己の中で再構築されて定着していくことも期待される。」と齋藤氏は言っています。

 

『教育課程企画特別部会 論点整理』によれば、アクティブラーニングには3つの視点があると言われています。それは「深い学び」「対話的な学び」「主体的な学び」です。この三つに立って授業を改善していくことが目的とされるのです。

 

第一の「深い学び」とは、習得・活用・探求という学習プロセスの中で、問題発見・解決を念頭に置いた学びの過程です。つまり、すでにあるものを記憶するのではなく、学習過程で見方、考え方が深まるような学習が求められる。

 

第二の「対話的な学び」とは、他者との協働や外界との相互作用を通じて、自らの考えを広げ深める学びの過程です。これは教師が話すことを聞いて終わりにするというのではなく、子どもたちが話し合いをして情報交換を行ない、子どもたちのものの見方が変わっていくような学びです。そこには外界との相互作用の手段としてインターネット、ICT(情報通信技術)を活用していくことが期待されています。

 

第三の「主体的な学び」とは、子どもたちが見通しを持って粘り強く取り組み、自らの学習活動を振り返って次につなげるまなび過程を指します。これには自分で問題を見つけ、解決することができるような環境作りが重要になります。

 

これらの三つの視点を持った学習スタイルがアクティブラーニングなのですが、大切なことは「学習内容ではない」といことなのです。伝統的な学力が学習内容として知識を身につけるものに対して、アクティブラーニングは「学びの方法」であるのです。このことはよく理解していなければいけません。

 

アクティブラーニングの話は教育の本質とも共通する話だと思います。何を知るかではなく、何のために知るのかが今問われているのだと思います。保育においても、教育においても、人を扱う仕事であり、コンピューターやロボットにデータをインプットすることが仕事ではないのです。そこには相手がいて、意志があり、感情もあります。そういった人たちに対し、知る機会を与えることが学習であるとおもいます。

新しい学力観と主体

「PISA型学力」や「問題解決学力」は従来の「伝統的学力」とは明らかに異なると齋藤氏は言っています。そして、「教科書を完全に暗記したとしても問題が解けるとは限らないというのです。実際の生活状況に近い問題が出され、仕事や生活で必要とされる力に近いと思われる力を測ることを目的としています。それは問題ごとに新たに考え、判断しなければならないタイプの問題がPISA型の学力である」といっています。

 

そのような学力を得るためには、問題を機械的に覚えて回答するのではなく、まず問題を理解しなければいけません。そうでなければ回答できないになるのです。ただ、知っていることを記載する試験では思考力は求められまさせん。そのため、問題を解くことに対する意欲自体ははかりづらくなります。その一方で、問題解決型の場合は、出題の意図をキチンと理解し、問われていることに対して自分で考えるプロセスが要求されます。そこには思考のエネルギーも求められます。このような問題に取り組み、そして、思考する意欲自体が問われ、また実際に問題解決能力も問われているという点では、このPISAの調査はまさに文部省が平成元年から目指してきた「新しい学力観」を具現化したものといえます。そういった意味では、今後の学習内容において、PISA型の学力の測られ方に変わってくるかもしれませんね。

 

このように「新しい学力観」では、生徒の主体性が重んじされることも大きな特徴になります。そのため、子ども一人ひとりがそれぞれ感じていること、考えていることを活かした授業を行うことが教師には求められるようになりました。子どもたち個々の意欲や感じ方、表現力・思考力・判断力が重要なのは疑いようがありません。しかし、実際にどのようにそれらを伸ばすか、どのように評価するか、ということになると、工夫が必要になると齋藤氏は言っています。

 

齋藤氏はこういった主体性を求めた学習について、「全体に対して特定の教育内容を一方的に伝達するという形式の指導では、ひとり一人の主体的な学習を活性させることにはならない」と言います。こういった学習形態は保育の中にも、落とし込んで考えられます。つまり、「子どもたちに一方的に情報を伝える保育は子どもたちの主体性を活性化させることにはならない」ということになるのです。そのためにも子どもたちが「自分で考え、自分で判断する」機会を与えることが重要になってきます。また、なぜ、「主体性」がこれほどまでに言われるのか、それは「子どもの権利条約」において「意見の表明権」というのはあります。それは子どもたちが自分で選び、自分で考える自由があるということが言われています。日本の場合、この意見の表明権に関してはまだまだ課題があると言われています。それは何も「子どもの言いなり」になることではありません。子どもを一人の人格者として見ることが必要なのです。よく「見守る」ということをいいますが、それは見ているだけでは、それはただの放置になるのです。「主体性」というのもただ、「主体が子ども」であればいいのではなく、何のためにそういったことが求められているのかということを念頭に考えていかなければいけないのだろうと思います。