志を持つ

日本の教育基本法第一章、第一条「教育の目的」にはこう書かれています。「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」社会の形成者としての資質を教育においては培うことが教育の目的になると言っています。こういった社会における一員として教育があるというはこれまでの教育者も同様のことを言っています。デューイやルソーも同様に教育は民主的社会の一員として、社会の一翼を担う個人を育てるためにあると言っています。また、吉田松陰や福沢諭吉のように自発的に考え、行動し、責任を引き受けていく人物を生み出すためには、その人物に核となる「志」があることが重要だと齋藤氏は言っています。そして、それは同時に、「身体的である」と齋藤氏は言っています。つまり、「問題解決能力」や「判断力」も人によって様々で、皆一律に伸ばすということはありえないと言います。それは数値化や一般化できないからこそ、その大前提が重要になってきます。

 

これは仕事をしていると分かりやすいかもしれません。特に保育という仕事はより、この「志」や「やりがい」といった数値化できない、意識が多分に出てきます。勉強ができ、ただ知識があったとしても、その意識がなければ宝の持ち腐れになることがあります。しかし、知識がなければ、環境を作るときの工夫や構成がひらめかないかもしれません。結局のところ、感じるのが最終的にこの仕事において「何をなしたいのか」ということがはっきりしていないと「知識を得ることもただ漠然としたものになる」と思うのです。

 

たとえば、今回のコロナウィルスについてもそうです。今回のコロナウィルス感染症について、単純に見ると非常に危険で子どもたちにとっても少なくはない、大きな影響を与えるものであります。ただ、怖がるだけであると、保育はできなくなります。しかし、自分たちが何を優先順位として持つかで、コロナウィルスの情報の取り方が変わってきます。単に情報を取り入れると「怖い」「危ない」「気を付ける必要がある」となり、それは自らの行動を律することになり、動きは制限されたものになります。しかし、保育を優先順位として一番に考えると「~をするには、今の状況だとどうすればいいのだろうか」と思うようになります。たとえば、「子どもたちは自宅待機している。でも、その中でも保育を届けるにはどうしたらいいのか」というように考えると、その中での保育を考えます。単に「自宅待機」だけを考えると「何もしない」となるのですが、保育を念頭に置くとその判断は変わるのです。

 

今の時代、より柔軟で多様な社会が求められます。そのときに柔軟で多様な社会を作るためにはいろいろなアイデアが必要ですし、それはひとりでどうこうなる問題ではないと思います。様ざまな人の意見を総合し、統合し、新たな知識としてイノベーションしていく必要があるのです。そのときに、一つの基本となるのが「志」や「理念」であるのだろうと思います。そして、それが「やりがい」につながっていくのです。