当事者意識

前回から出ていたテクノロジーについて、結局のところ、ただ、デジタルテクノロジーを利用するだけでは成績が上がらないということが分かりました。そして、アンドレアス氏はデジタルコンテンツがかえって教員と生徒との緊密なやりとりを阻害しているとも言って言います。結局のところ、デジタルテクノロジーもあくまで授業における媒体としては必要なものであり、効率の良いものなのですが、あくまでもツールであり、教育という目的に対して、それがあればいいというわけでもないようです。では、アンドレアス氏はどういった教員が結局のところ必要といっているのでしょうか。

 

アンドレアス氏は「素晴らしい授業の中心はテクノロジーではなく、当事者意識である」といっています。「多くの人は、教員や学校管理職に十分な能力と専門知識がないために自立を高めることができないという。しかし、教育の規範的モデルを維持するだけでは創造的な教員は生まれない。調理済みのハンバーガーを再加熱するためだけに訓練された人が料理長になることはできないのである」といっています。そして「対照的に、教員が自身の教室に当事者意識を感じるとき、生徒が自身の学習に当事者意識を感じるとき、生産的な授業が行われる。したがって、信頼、透明性、専門家としての自律性、専門家の協同文化を同時に強化することが重要なのである」といっています。

 

この「当事者意識」という言葉は以前、工藤勇一氏の著書にも書かれていました。しかし、当事者意識を持たせるいうのはなかなかに難しいことです。自分自身もまだまだ課題なのですが、「人を信じる」というのはなかなか容易にはいきません。2011年のオランダでは教員主導で職業基準を考えていることをアンドレアス氏は研究したそうです。そこで当時のオランダ政府は「教員に任せれば必要な厳格性が失われ、最小公約数のような基準になる」という懸念があったそうです。しかし、反対のことが起こったのです。つまり、オランダ政府には課すことができないような職業基準を教員が自ら開発したそうです。これはほかの職種でも同じことが言えるそうなのですが、プロ意識や専門家としての誇りが、政府よりもはるかに優れた監視役になることがあるのです。

 

「これはほかの職種でも同じことが言える」というように当事者意識というのはそれほど大きな行動力を与えるのかもしれません。そして、実際その現場で行う人々が決めたことであるから、それを遵守するということも強固に行ってくれるのでしょう。この事例は非常に参考になります。そして、これは何も大人に限った話ではありません。これは子ども社会に関わるリーダーシップにおいても同様のことが言えるのだろうと思います。この当事者意識を持たせるというのは一種のリーダーシップです。そして、保育者や教育者は子どもたちにとってはリーダーなのです。つまり、子どもたちに1人1人に当事者意識を持たせることは自立性を高めることになるのです。見守る保育は子どもたちに責任を感じるようにすることも一つの意味合いとしてあります。責任があるということは自分が責任を負います。それは子どもたちに当事者意識を持たせることでもあるのです。