1月2020
ロックフェラー大学の神経内分泌学者のブルース・マキューエンは1990年代のはじめに提唱したストレス反応についての理論を提唱し、今も広く受け入れられています。マキューエンによると、ストレスを管理するプロセス(彼はこれを「アロスタシス」と名付けた)こそが体を損なう要因になっていると言っています。人体のストレス対応システムは、酷使すればやがて壊れてしまうのです。そして、このストレス対応システムによって徐々に進行する人体への負担をマキューエンはアロスタシスによる負荷(アロスタティック)と呼び、負荷による有害な影響は体を観察していればわかると言います。たとえば、急激なストレスによって一時的に血圧が上がるのは、危機的な状況に対応するために必要なだけの血液を筋肉や内臓に送り込むためなのだが、この血圧の上昇が繰り返されると動脈内に隆起が生じ、心臓発作の原因となる。継続してかかるストレスにより、結果として心臓発作になりかねないということが見えてきます。ACEの数値が高い人が虚血性心疾患になる危険性をはらんでいるということとつながります。
しかし、本来、人間のストレス対応システムは受けたストレスの種類によって適切な防衛機制がひとつだけ引き出されるのがよいのです。たとえば、もし何かで軽傷を負ったなら、免疫システムが働いて大量に抗体を作り出せばよいのですし、もし、攻撃者から逃げる必要があるのなら、心拍数や血圧が上がればいいのです。しかし、HPA軸(視床下部・下垂体・副腎系)は脅威の種類を見分けることができないため、どんな脅威に対してもすべての防衛機制をいっぺんに活性化させるのです。つまり、一つの脅威に対して全く助けにならないストレス反応もしばしば起こるというのです。たとえば、聴衆に向かって話をしなければならないときに突然口が渇いてしまうといったことなどです。これはストレスによって危険と察知したHPA軸が襲撃に備えて水分を保存しているのです。そうなると必死で水の入ったグラスを探し、中身をごくごくと飲み干すことになります。
現在、これらのアロスタティック負荷を測定する数値も現在では研究され、ある程度数値化する指標が見えてきているそうです。そのため、医師が例えば20代の患者に出してみせるたった一つの数字に、当の患者がそれまでに受けてきたストレスと、そのストレスの結果として現在直面している健康上のリスクとの両方が反映されてしまうというのです。そして、それは厳然たる医療データを反映したものとして出てくるのです。そのため、現在では子ども時代の逆境が実際に体に及ぼした影響は皮膚の下、体の奥深くに刻みこまれたものとして見えてくるようになってきたのです。
このようにストレスは体に影響が出てくるだけではなく、数値化できてくることが分かってきました。そして、それは体だけではなく脳においても影響が出てくるということも分かってきました。
2020年1月16日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
アンダとフェリッティは逆境によるストレスが、発達段階の体や脳にダメージを与えると言っています。
私たちの体はHPA軸と呼ばれるシステムを使ってストレスに対応している。HPA軸は「視床下部・下垂体・副腎系」の略で、これは困難な状況への反応として脳から体へと化学信号が流れる様子を表している。視床下部、つまり体温や空腹感、渇きなどの無意識に起こる反応をつかさどる脳の領域は、なんらかの危険を感じとったときに最初に防衛にあたる。まず、視床下部が化学物質を放出して下垂体を刺激し、それを受けた下垂体がシグナルを伝達するホルモンを放出する。そのホルモンにより副腎が刺激を受け、グルココルチコイドと呼ばれるストレスホルモンを送り出して特定の防衛反応のスイッチを押す。こうした反応のなかには自覚できるものもある。恐怖や不安といった感情や、心拍数の上昇、発汗、口内の渇きといった体の反応がそうです。しかし、HPA軸の影響には、自分の体内で起っていることなのに直に感知できないものが多いのです。神経伝達物質の活性化、血糖値の上昇、心臓血管系から筋肉への血液の流れ、血中の炎症性たんぱく質の増加などがその例です。
「なぜシマウマは胃潰瘍にならないのか」(シュプリンガー・フェアラーク東京、1998年)の中で、神経科学者のロバート・M・サポルスキーはこう言っています。「わたしたちのストレス対応システムは、他のすべての哺乳動物と同じように、急性のストレスに反応できるように進化してきた。人類がサバンナに暮らし、捕食者から逃げ回っている分にはそれでよかった。しかし、現代の人類はめったにライオンと戦ったりしない。今日のストレスの大半は、さまざまなものごとについて心配するという精神機能からくる。だがHPA軸はその種のストレスに対応するようにはできていない。」と言っています。そして、「人間の生理システムは急を要する身体的な非常事態に反応するよう進化してきたものである。しかしわたしたちは住宅ローンや人間関係や昇進について心配することで、そのシステムを何カ月ものあいだ使い続ける」というのです。
こうした生理システムの使い方は効率が悪いだけではなく、きわめて有害でもある。その証拠にここ15年以上の間に多く発見されている。HPA軸に、特に幼少期に負荷をかけすぎると、長期にわたる深刻な悪影響が体にも、精神にも、神経にも様々に出てくるのです。しかし、このプロセスの難しいのは、わたしたちをかき乱す原因がストレスそのものではないという点です。原因はストレスに対する反応にあるのです。
2020年1月15日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
アンダとフェリッティは子ども時代の逆境(ACE)を数値化していく中で驚くべきデータを見つけます。それはACEの数値が高ければ高いほど、成人後も常習行為から慢性疾患にいたるまでほぼすべての項目でより悪い結果が出ていたというのです。この結果を見て、アンダとフェリッティは次々に底辺のX軸にACEの数値を振り、Y軸には肥満、鬱、性行為開始年齢、喫煙歴などの項目を当てはめ、棒グラフを作っていきます。すると、どの表も一貫して、棒グラフは左(ACEの数値がゼロ)から右(とくに7以上)にいくにつれて確実に伸びていったのです。
この表を見ていく中で、ACEの数値が4以上の人々は子ども時代に逆境になかった人々に比べて喫煙率は2倍、アルコール依存症である割合は7倍、15歳未満で最初の性行為を経験した割合も7倍。がんの診断を受けた率は2倍、心臓病は2倍、肝臓病も2倍、肺気腫や慢性気管支炎を患っている率は4倍であった。そして、いくつかの表ではグラフの伸びがことに顕著であった。ACEの数値が6を超える成人は、ゼロの人に比べて自殺を試みたことのある割合が30倍に上ったのです。そして、ACEの数値が5を超える男性は、ゼロの男性に比べて46倍という高率でドラッグを注射したことがわかったのです。
心理学者たちは長い間、子どもの頃の精神の痛手は自己評価の低さや無力感の原因となり、そうした感情が依存症や抑鬱、はては自殺にまでつながる可能性が高いと推定するのは妥当だと信じてきた。そして、ACEの研究でも扱った肝臓病や糖尿病や肺がんのような病気は、部分的には過度の飲酒、過食、喫煙といった自滅型の行動の結果だった。
しかし、フェリッティとアンダの研究によると、そうした自滅型の行動をとらなくともACEの数値の高い人々には成人後の健康に深刻な悪影響がでていた。ACEの数値が7を超える人々を見ると、喫煙や過度の飲酒をせず、太りすぎているわけでもないのに数値ゼロの人々に比べて虚血性心疾患(アメリカ国内の死因第一位)にかかる危険性が3.6倍高いことが分かった。彼らが子どもの頃に経験した逆境は、本人の行動とは関係のない経路で彼らに病気をもたらしていたのである。
子ども時代の逆境の数値(ACE)から見えてくることはたくさんあったのですね。その環境から喫煙や飲酒に目覚めるのが早いというのは想像がつきます。しかし、それ以上に虚血性心疾患など、環境や本人の行動によらない疾病にまで影響が出ているというのは非常に驚くべきことです。それほど幼い頃のストレスのかかる環境というのは非常に深刻な影響を長いスパンの中でもたらす可能性があるのですね。
その後、研究を進めていくことで、アンダとフェリッティは逆境によるストレスが、発達段階の体や脳にダメージを与えるということが分かってきます。
2020年1月14日 5:07 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
バーク・ハリスは子どもたちの貧困と経済格差において、単純な医療行為や社会問題だけの問題ではなく、もっと微細なレベル(ヒューマンバイオロジーの領域の深部)での分析や検討をしたほうが良いということを考えるようになります。そんな時にある医療雑誌の記事に出会います。そのタイトルには「子ども時代の逆境が成人の健康に及ぼす影響―黄金が訛りに変わるとき」とあり、ヴィンセント・フェリッティというカリフォルニアを拠点とする大規模医療保険団体カイザー・パーマネンテの予防医学部門の責任者の記事でした。この記事には「子ども時代の逆境(ACE)の研究」の内容であり、1990年代にフェリッティがロバート・アンダ(アトランタにあるアメリカ疾病予防管理センターの伝染病学者)とともに行ったものでした。
研究の開始は1995年。カイザーの医療保険の登録者で総合健康診断を受けた人に子ども時代の逆境を10のカテゴリーに分けた場合に自分はどこに属すると思うかというアンケート調査を実施した内容です。このカテゴリーには暴力や性的虐待、身体的/感情的ネグレクト、両親が離婚/別居していた、家族の中に刑務所に収監されているものがいた、精神病を患っているものがいた、何らかの依存症だったものがいたなど、様々な種類の家庭の機能不全が含まれる。数年のうちに1万7千人を超える登録者からアンケートの回答が寄せられた。返答率は70%で、回答者はまさに統計学上のマジョリティ、つまり、中流および上位中流階級の人々だった。75%が白人で、75%が大学教育を受けており、平均年齢は57歳でした。
回答を一覧にまとめたときにアンダとフェリティがまず驚いたのが、低所得者層ではなく、中流及び上位中流階級と言われる層の中にも子ども時代につらい思い出を持つ人が多いということでした。回答者の4分の1以上がアルコール依存症患者やドラッグ常用者のいる家庭で育ったと答えていたのです。そして、子どものころ叩かれたと答えた人数もほぼ同じ割合でした。二人はこのデータを使って、それぞれの子ども時代の逆境(ACE)を数値化します。ひとつのカテゴリーにつき1点を加算していくようにしていきます。するとその結果、3分の2の人に1点以上がつき、8人にひとりが4点以上がついたのです。
さらに二人が驚いたのは、カイザー社が集めた街灯登録者の膨大な医療履歴をACEの数値と比較したときでした。子どもの逆境と成人してからのネガティブな結果の間には非常に深い相関関係が見えてきたのです。そして、この2者関係は非常に直接的なものでした。というのもACEの数値が高ければ高いほど、成人後も常習行為から慢性疾患にいたるまでほぼすべての項目でより悪い結果が出ていたのです。
2020年1月13日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
前回のエリザベス・ドージアは学内で起こっている事件や素行において、決してルールを厳格にすることが解決にはつながらず、「子どもたちにはどういった家庭があるのか」や「貧困は子どもたちにどういった影響を与えるのか」ということに考えがいきつきました。
次にもう一人、ナディーン・バーグ・ハリスもドージアのように「貧困は子どもたちにどのように影響を与えるのか」と考えがいきついた一人です。彼女は医師として、患者の健康という観点から「貧困は子どもたちにどういった影響をあたえるのか」という問題に取り組みました。彼女はサンフランシスコのベイビュー・ハンターズポイント地区。街の南東の地味な工業地区で、市内で最も大きく最も荒れた公営住宅のある場所の児童保健センターの小児科長として働いていました。彼女はカリフォルニア・パシフィック・メディカル・センターという資金の豊富な私立の総合病院に雇われており、サンフランシスコ市内の健康格差の問題に正面から取り組もうとし始めました。こういった健康格差はベイビュー・ハンターズポイントのような地区では格差を見つけるのは難しくありませんでした。そして、バーグ・ハリスはハーバード公衆衛生大学院で健康格差について学んでいたのです。そこでは格差をなくしていくための方策も公衆衛生学の教科書に書いてありました。そこでは低所得の家庭が医療機関、特に一時医療(一般的な疾病の予防や初期治療)を扱う期間にかかりやすいようにすることが格差をなくすための方法だとそこにはありました。
彼女はクリニックを開くとまずは裕福な家の子どもと貧しい家の子どもの差が明らかで見た目にも分かりやすい健康問題、つまり喘息の管理、栄養教育、三種混合ワクチン接種の推進に重点的に取り組みます。ほんの数カ月で目覚ましい成果があがりました。しかし、彼女はこういいます。「ワクチンの接種率をあげ、ぜんそくで入院する子どもの数を減らすのは、結果的には驚くほど簡単でした。けれども、実はこれで格差の根本的な問題に対処できていないのではないかと思うようになりました。つまり、私の知る限り、このコミュニティではもう長いこと破傷風が原因で死亡した子どもはいないわけですから」
彼女は夢の仕事に就くことができ、充分な訓練を受けており、懸命に働いている。資金もたっぷりある。しかし、助けようとしている子どもたちの生活に満足のいく変化をもたらすことができずにいる。子どもたちはいまだに家庭でも街中でも暴力と混沌に取り巻かれ、身体的にも精神的にも明らかに重大な犠牲を強いられてきた。クリニックで出会う子どもたちの多くが抑うつ状態だったり、不安を抱えていたりしているように見え、そのうちの何人かははっきりと心的外傷を抱えていた。そして、彼らが日常的にうけるストレスは、パニック発作から摂食障害、果ては自殺行為まで、さまざまな症状として表れた。バーク・ハリスは一時診療を提供する小児科医というよりも戦場の外科医であるように(患者に応急処置だけを施して戦場に送り返しているように)感じることがあったというのです。
こういったことに対し、バーグ・ハリスが答えを探した結果、貧困や逆境に関するまったく新しい議論にたどり着きます。公益機関の刊行物や政治学のシンポジウムではなく、医療系の機関誌や神経科学の会議でそうした議論がなされていました。このようなドージアの学校のあるローズランドやバーグ・ハリスの健康格差の舞台となったベイビュー・ハンターズポイントのような地区の問題は普通は社会問題、つまり経済学者や社会学者の領域とみなされるものが多いのですが、実はもっと微細なレベルで(ヒューマンバイオロジーの領域の深部で)分析・検討された方がよいという答えにたどり着きます。最初は極論に思えたが、徐々に納得がいくようになったと彼女は言います。
この結果から見えることがあります。確かにバーグ・ハリスは健康格差をなくすために予防接種や栄養教育などを施します。そして、ある程度の成果がありましたが、「もう長いこと破傷風が原因で死亡した子どもはいない」というように現状としてはその部分の改善はすでにできているというのです。「彼らが日常的にうけるストレスは、パニック発作から摂食障害、果ては自殺行為まで、さまざまな症状として表れた」という部分の改善は難しかった。この部分のメンタルヘルスが結果として健康格差にもつながっているのではないかと考えたのです。そして、それが「貧困と健康格差との関係」においても大きな疑問をバーグ・ハリスに投げかけたのですね。
2020年1月12日 5:03 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 社会, 社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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