8月2019

Not 心の教育

道徳科とした小学校の授業が始まっています。小学校において道徳とは平成29年に告示化された小学校教育要領において、道徳は「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため、道徳的諸価値についての理解を基に、自己を見つめ、物事を多面的・多角的に考え、自己の生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる」と書かれています。「自己を見つめる」ことや「自己の生き方についての考えを深める」ことが大切なのですね。幼稚園においても「思いやり」や「相手の気持ちを知ること」などは話題に上がることが多いですし、先生方もどう子ども同士がうまく関われるかを考えています。

 

麴町中学校では「心の教育」を「社会にとってよい行動を行うことができる人を増やす」という目的のために心の教育はあるとしています。そこで工藤氏は京都の薬師寺の僧侶の話を紹介しています。「心の持ち方、ありようによって行動が変わり、行動を変えると心をかえることができる。『面白くない、つまらない』と思って授業を受けていると、ついつい頭が下がり、居眠りしてしまったりする。それは、自分の中にある、ぐうたらな心が自分の行動をそうさせている。しかし、たとえ、寝不足などで体がひどく疲れ切っていたとしても、姿勢を正し、頭を上げ、顔をしっかり意識して向けていくことによって、元気な心が生まれてくる」。心が行動を決め、行動は心を決めるというのです。「心の底からやさしいことをしたいと思っているのに、人目を気にするあまり、行動できない人」と「決して純粋な理由ではないけれども、よいことを行っている人」どちらの人がより価値があるのかと言っています。人は行動の積み重ねで評価されていくものだと工藤氏は考えていますし、そもそも人の心の中など簡単にわかるものではないと考えています。そして、「心はみんな違っていい」はずであり、人の価値観、考え方はみんな違ってよいとした上で、人は行動こそが大切だという「行動の教育」を伝えていきたいと思っているそうです。

 

そのため、工藤氏は1年生全体の道徳の授業を年度初めに行っていますが、そこで命、人権を大切にすること、差別をしてはいけないことの重要性について話をします。そして、人を差別する心を完全に消し去ることはできないかもしれないが、そのことを意識すれば、差別をしないことはだれでもできる。そうした人間になることこそが大切だと伝えているそうです。そして、小学校や幼稚園で心の教育の象徴としてよく言われる「みんな仲良くしなさい」という言葉に対して、コミュニケーションが苦手な子どもたちは苦しい思いをしているのではないか。良かれと思って多くの教師がつかっていることばで、結果として、子どもが排除されてしまってはいけない。「人は仲良くするのは難しい」ということを伝えていくことのほうが大切だと考えているとしています。

 

全員がコミュニケーションが得意ではなく、そうではない生徒もいるという視点は保育においても大切なことだと思います。全員が同じではなく、いろいろな個性をもった人がうまく折り合いをつけながら、歯車のように補い合いながら社会はあると思います。もしかすると、私たちの教育自体が一つの固定概念を作ってしまい、その価値観にない人を排除するような考え方にしているのかもしれません。「でなければならない」という結果の行動を考えるよりも、「こうであるようにする」といった前向きな行動を求めるような形のほうがいいのかもしれません。

誰もが楽しむ

工藤氏の変革は「宿題の廃止」「クラス担任の廃止」「定期考査の廃止」だけではない部分にも影響していきます。それは「運動会のクラス対抗」でした。このことに関しては工藤氏からではなく、生徒が考え生徒会の中で話し合われた結果、「クラス対抗」であり、工藤氏は「生徒が目的を達成する手段として適切ではないと生徒たちが判断した」ことが理由であると言います。

 

そのことについて工藤氏は生徒たちに一つの条件を出します。それは「生徒全員が楽しませること」を目的にすることです。運動が必ずしも得意でない生徒も、運動会を楽しみにしている生徒にも、全員楽しめるものにしてほしいと生徒に話したそうです。生徒ははじめ「クラス対抗リレー」をしたいかどうかのアンケートを取ります。すると、9割が「やりたい」と言い、1割の生徒が「やりたくない」という結果だったそうです。これまでであれば9割が「やりたい」のだから「クラス対抗」を行うことになるのですが、「全員が楽しませる」ためには1割の生徒の「やりたくない」を無くさなければいけません。何度も話し合いが繰り返される中「全員リレーをしない方が全員のためになる」という考えに至ったのです。

 

そこでそもそも「運動会・体育祭」の目的は何かといった時、「競争力を養うこと」や「運動能力の優劣をつける」ことにあるのであれば「クラス対抗」は適切な手段なのかもしれないが、麴町中学校の体育祭の一番の目標は「生徒全員を楽しませる」ことを最上位目標にしていると言います。生徒の中には運動が得意ではない生徒もおり、運動会や体育祭が憂鬱な生徒もいます。クラス対抗のリレーや大繩跳びで自分のミスによって周囲に迷惑をかけ、責められ人間関係にひびが入る可能性もあります。「全員が楽しむ」ためには運動が苦手な生徒の居場所もつくらなければいけません。クラス対抗の形での勝敗を意識すると勝利したクラス以外の生徒は悔しい思いをし、運動が苦手な生徒は肩身の狭い思いをします。それでは「全員を楽しませる」ことにはならないのです。

 

これまでの学校教育では「規律」や「団結」が尊ばれ、チーム一丸となって何かを達成することが目的とされていました。しかし、個人に自己犠牲を求め、個性を認めないような組織は本質的に強くなれないと考えている。と工藤氏は言います。そのうえで、学校における体育の目的については、技能を高めることや競争心を養うことよりも、運動の楽しさを求めることのほうが大切だと考えている。と言い、スポーツは自分の人生を楽しませる、友だちのようなものであってほしいと思っていると話しています。

 

私自身も「行事」においては、その本質を改めて見直す必要があるということを感じます。

「教育の本質としての運動会・体育祭」、いつの間にかそれが「運動会をする」ことにとって代わられている時代なのかもしれません。そして、何よりもその主体が「子ども」ではなく、それを見ている「大人」になっていたりとなっている場合もあります。規律や団結を否定しているのではなく、その中にも社会があり、それを調整していく力はこれからの社会でとても重要な意味合いを持ってくると思います。こういった本質を見たうえで保育を進めていく必要性をとても考えさせられます。

固定担任制から全員担任制➁

いよいよ麴町中学校の担任制を固定担任制から全員担任制に変えることになるのですが、工藤氏が参考にしたのが、「チーム医療」です。患者にとって最も適した医療を受けることができるように心のケアや専門性の高い処置を行う病院の取り組みは学校に置き換えると子どもたちに最善の手立てを学校全体でとるということになるといいます。

 

具体的に言うと教員一人一人が得意な分野を生かして生徒にとって大きな価値につなげていくという考え方です。教員には生徒のサインを読み取るのが得意な先生、保護者対応が得意な先生、ICTの活用にたけた教員、様々な個性を生かし合うことができる学年運営に変えることを目的にしています。また、学級活動や道徳の授業は2人体制で各クラスへ出向いているそうです。このように幅広い教員とかかわりを持ち、価値観を広げることに大きなメリットができます。また、三者面談は保護者と生徒が教員を指定する形を行っています。このように幅広くクラス運営をすることができるため、クラス意識による「勝ち組」「負け組」といった生徒や保護者の意識が変わります。

 

しかし、その反面、非常に重要になってくるのが教員間の連携です。日ごろから密にコミュニケーションをとらなければいけません。そのため、どの学年も週に1回会議を行っており、日常的にコミュニケーションを取り合いながら情報共有を行っています。そうすることで全体担任制にして、逆にコミュニケーションが劇的によくなったと教員は話しているそうです。

 

これらの全体担任制は自園での「チーム保育」と非常に考え方が似ています。我々の保育において、子どもたちの発達を見通すことがとても重要である中で、多角的に子どもたちを見る目線は非常に重要です。4人一組で子どもたちを見るほうが幼稚園では活動に活発な子とそうではない子の両方をカバーすることができます。そのため、一人一人にあったかかわりができます。そして、保育でも絵が得意な先生、ピアノが得意な先生、積み木が得意な先生と得意なものは様々です。得意な人が得意なことを行い、職員が楽しく保育をすることは子どもたちにとっても非常に影響を与えると考えています。また、職員にとってもお互いの保育を見あうことで刺激にもなります。チームで行うことは非常に利点が多いということがわかりますが、この形になるまでは様ざまな課題も多くあります。しかし、今後の保育において変革を行っていくことは非常に重要な意味を持つと思っています。

 

工藤氏は様々な変革の中で学校の上位目的に照らし合わせて適した手段が行われていないのであれば、100年続いた制度や仕組みであっても変える必要性を話しています。そして、そのうえで校長や教育関係者が変える柔軟性を持つべきだと言っています。

固定担任制から全員担任制①

工藤氏の麴町中学校の変革は今自園で行っている実践にもつながることや共通することが多くあります。そして、工藤氏の変革の一つ「全員担任制」は自園での「チーム保育」と共通することが多々あります。

 

まず、工藤氏は現在の固定担任制に疑問を持つところから始まります。固定担任制において一番の問題になるのは良くも悪くも、「先生の裁量」がとても重要になるところです。ここでは「保護者の学級の良し悪しは担任に紐づけられる」と言います。そのため、担任は子どもたちに対して学習面から生活面に関して手厚く面倒を見るということが「丁寧な指導」「面倒見の良さ」という評価を受けるため、学校や教育委員会がそれをセールスポイントにすることが少なくないそうです。教員自体も学級の生徒の人生を背負っている気負いになり、加えて「生徒に好かれたい」という気持ちが強くなるほど、指導は手厚くなります。しかし、その面倒見の良さは子どもたちにとっては自分で解決できない問題に直面した時にうまくいかない原因を自分以外のまわりに求め、安易に人のせいにしてしまう傾向があるように思うと工藤氏は言います。自律をまなばないと物事がうまくいかないと担任教員に責任を転嫁するのです。たとえば、勉強が分からないと「授業が分かりにくい」、忘れ物をすると「聞いてない」というように丁寧に指導した結果がこうなったのだというと皮肉です。

 

また、全員担任制には子どもたちの中にある「勝ち組」「負け組」の意識を少なくするねらいもあります。教員集団は様々な年齢やキャリアで構成されていますが、力量に差が出るため、良くまとまるクラス・そうではないクラスができてしまうことや定期考査でクラス平均を出すことでクラスの対抗意識を助長し、優劣観や劣等感を生む側面もあると言います。学級崩壊にしてもまとまっているクラスとそうではないクラスとの格差が大きいときに起こることが多く、他と比べることで不平不満が高まり、反感が生まれるのだと言います。

 

実際、工藤氏も教員時代は自分の学級を「勝ち組」にすべく取り組み、まとまってくることに喜びを感じていたそうです。そのため、他のクラスよりも自分のクラスを優先することになっていたのを今思えば感じているそうです。

 

しかし、その後年上の教員の先生と同じ学年を持つことになり心境の変化が起きたそうです。それは「このクラスの先生に勝ってもうれしくない」と思ったことであり、その後「両方のクラスをよくしていこう」という気持ちに変化したそうです。では、全員担任制にしてどうのようにかわってきたのでしょうか。

 

 

定期考査の評価

工藤氏は定期考査を無くしたことで一つの大きな問題に直面したと言っています。それが「生徒の評価」です。本題であれば2000年ごろから評価方法が「相対評価」から「絶対評価」に変わっているので、点数の序列ではなく、一人一人の到達度に応じて評価する方向に舵が切られています。そのため、生徒全体に「5」の評価をつけることができます。しかし、全員に「5」の評価を与える学校はないというのです。その理由は教育委員会から「不適切だ」として指導が入るだろうというのです。その理由があるとすると、高校受験の内申点とそれに伴う推薦入試があるからだというのです。この内申点の基準となるのが通知表で、ここで順位がつかなければ、推薦入試が成り立たないというのが主たる理由として考えられるのです。しかし、この方針は国の方針と矛盾しています。ここでも、「これまでの教育」というマイナスのベクトルが働いていますね。

 

しかし、結果として麴町中学校では定期考査を廃止し、単元テストに切り替えたことで、生徒たちはこれまで以上に自分で考え、よく勉強するようになりました。勉強時間が増えた子もいます。「自宅で机に向かっている時間が増えた」という声も保護者から聞こえてきました。そのうえで、効率的に学習できるようになった結果として、勉強時間が減って場合もありますが、それでもいいのです。子どもたちが自分の意志で主体的に学ぶことが大切なのです。単元テストの回数は定期考査を実施していた時よりも多くなりました。しかし、その点で生徒たちが同じ時期に複数の単元テストが集中すると、部活動も両立しては負担が大きくなりパンクしかねません。教員同士が連絡を取り合う形で単元テストのスケジュールを調整します。

 

日本の学校には「ある時点で評価する」仕組みが浸透しています。基本的な理由は生徒の「評価」のためです。しかし、こんなことを続けているようでは、学生が社会で役立つ本物の専門性を高められないのではないかといいます。まずは大学が前期・後期のテストを廃止し、日々の授業の中で、プレゼンテーションやディスカッションする様子を適切に評価するなどの仕組みを整え、学生の本質的な学びを促すべきだとおもいます。

 

よく保育の中で、自由遊びが多いと子どもたちは小学校に行ったときに勉強ができるのでしょうか。と言われることがあります。そして、45分座れることにとても心配される保護者がたくさんいます。しかし、45分座れるから勉強ができるようになるのでしょうか。それよりも学びたいという「意欲や好奇心」があるほうが学びにつながるのではないかと思います。そのために、いろいろと遊び込むことや試すことで知る楽しみや試す楽しみを得ることにこそ、学びの始まりはあるように思います。「やらせる」ことは簡単ですが「やりたいこと」を見つけることは子どもが主体的に動かなければできません。いかにその意欲を持てるようにできるのか、それは乳幼児教育だろうと中学校教育だろうと変わらないのが分かります。