8月2019

人類の進化と今

赤ちゃんが生まれると様々な発達や成長を見せてくれますが、赤ちゃんの一日は人の進化の何百年を示しているのと同じということを聞いたことがあります。そして、そのことを考えていくと、「ヒト」という生物が見えてきますし、人が持っている機能やその在り方は太古の昔から変わっていないということがわかります。

 

その一つが二足歩行です。この理由は氷河期に入った寒冷期の中、厳しい環境の下、予測もしなかった貴重な食物資源に出会った時、それを両手で持って効率よく運べるよう、この態勢をとったと言われているのです。そして、その進化の過程で、両手で道具がつかわれるようになり、直立するようにっなったために脳の拡大が可能になったというのです。しかし、その一方で、四足歩行の時よりも足は遅くなり、多くの肉食動物の餌食になりやすくなりました。また、直立した体を支えるために骨盤が椀上になると産道の大きさが制限されてしまうため、大きな頭の子どもが産めなくなります。そこで胎児の状態で赤ちゃんを産み、出生後に速いスピードで脳を成長させることにしたというのです。

 

そのため、歩行の進化が「分娩方法の変化」をもたらした言います。米国のデラウェア大学のカレン・ローゼンバーグは「産道を通るべき胎児の頭部を上から見ると、額と後頭部を結ぶ線が長く、両耳を結ぶ線が短い楕円形になっている。ところが産道の入り口は母体の左右方向に長い楕円形で、その向きは産道の途中で90度旋回してしまう。それ以降は母体の前後方向に長い楕円となる。そのため、胎児は最も大きい頭と肩を産道の最も広い場所にあわせて体を旋回させなければならないという事態に陥る」と言っています。つまり、人類は出産において介助が必要になるということです。そして、その出産を解除するという習慣は人類世界共通だそうです。

 

ここで紹介されている人の進化は250万年~200万年前のアフリカでの人類の進化です。今では、出産は産婦人科など病院で行われることが普通ですが、それまでは「産婆さん」などが解除していた時代があったり、子どもを産むというために母体以外の人の介助が必要とされていたことは、人類の進化から何も変わっていないということに驚きます。そして、その裏には人は社会を形成していたということが見え隠れしてきます。人類の進化と保育、一見交わらないと思われる内容ですが、その実、密接にかかわっているということがわかります。

子どもの発想

赤ちゃんは、科学者と同じように推理力を働かせ、豊かな想像力で常にトライ&エラーを繰り返しながら現実把握にいそしんでいると言われているそうです。そして、ある意味、大人よりも賢く、想像力に富み、思いやりがあり、意識も鮮明であるとも言われており、脳科学でこういった知見が解明されています。

 

アリソン・ゴプニック著の「The Philosophical Baby(哲学する赤ちゃん)」には子どもと大人の間には進化的に一種の役割分担が出来上がっていて「子どもはいわば、ヒトという種の研究開発部門に配属されたアイデアマン。大人は製造販売担当です。子どもは発見し、大人はそれを実用化するのが仕事です。子どもは無数のアイデアを提案しますが、実際はほとんどのものは使えません。実行可能な案はほんのわずかです。(中略)それでも、斬新な変革能力、それをもたらす想像力と学習能力で競えば、負けるのはきっと大人の方でしょう」これを受けて藤森氏は「世の中で天才と言われる人の多くは、大人になってもなお、子どものような自由な発想をいつまでも持ち続けられる人かもしれません」と言っています。

 

こういった子どもたちの自由な発想は幼稚園や保育園でもたびたび見られることです。しかし、その反面。大人の尺度でいうと煩わしかったり、面倒であったりするものも多くあります。以前、ドイツの保育を視察させてもらった時に「子どもが触ってほしくないものはどう伝えますか?」といった質問に対して「そもそも子どもの手の届くところに置きません」と言っていました。これこそ、「環境を通して」といった見方なのかもしれませんね。「子どもたちは自由で様々な発想をするもの」という前提で子どもを見ることと、「子どもは大人の指示で動かすもの」といった前提で見ることとは大きな違いがあります。子どもの発想に大人がついていけないことはたびたびあります。「いやそれは無理でしょ」と思うものも、子どもは挑戦しようと本気で思っています。

 

赤ちゃんの脳は想像することと学習することに特化するために、大人の脳よりたくさんの神経回路があるのではないかと言われています。そして、そのためおとなより可塑性や柔軟性がはるかに高く、変化をよく受けると言います。それは、新しい社会にいち早く順応して、そのなかで生きていく力をつけていく必要があるからなのだと言われています。そのため、OECD(経済協力開発機構)では、こういく投資の効率は乳幼児が最大なので、就学年齢を引き下げ、乳幼児教育への投資を増やす必要があると言っています。そして、この「教育」というものの考え方も「教え育てる」という意味あいではなく、本来の「educate」の意味の「持っているものを引き出す」という意味で捉える必要があるように思いますし、そう考えるとドイツの社会法にある「子どもは生まれながら教育される権利がある」という考えに至るのも分かります。やはりドイツなど欧州は「白紙論」で子どもを見ていないのでしょうね。

与える喜び

『The Giving Tree(大きな木)』(作:絵:シェル・シルヴァスタイン)という絵本があります。1964(昭和39年)に出版された作品で、日本では1976(昭和51)年の初訳出版依頼、複数の訳で読み継がれてきた名作です。この話はりんごの木と少年のやり取りの話です。

 

私ははじめ専門学校の時にこの本を紹介されましたが、あまりいい印象を持たなかったのを覚えています。徐々に成長していく当時の「ちびっこ」が買い物のためにお金が欲しいからといってりんごの木からりんごの実をもらい、家のために枝をもらい、船のために幹を与えてます。そして、年老いたかつての少年は切り株に腰を下ろして最後に安堵する。りんごの木はかつての少年に安らぎを与えたことに満足する。という内容でした。その時はその少年の身勝手さと木の従順な態度において、「この本は何を伝えたいのだろうか」と思うことのほうが強かったのです。

 

この絵本について、藤森先生は作家の鈴木光司さんの「与えることの喜び」という朝日新聞の記事を紹介しています。《ひたすらあたえることに喜びを得るというのは、愛のレベルとして、最高度のもの。まったく見返りを期待しないで、人に尽くせるかどうか、自分の心に問うてみれば、その難しさがわかる。親の、子に対する愛だけ、かな》このことについて、藤森先生は「「GIVE」は「与える」という意味ですが、それに進行形のingがつくと「惜しみなく与える」「優しい思いやりのある」という意味になる。原初では「she loved a little boy」とあるように木は女性のようです。やはり最高度の愛は、子どもに与え続ける母の愛なのかもしれません」と言っています。

 

この文章を読んでいると自分自身は見返りを求めるような考えで子どもたちを見ているのかもしれないと反省しました。保育で考えてみるとあくまで「子どもがプレイヤー」です。そして、保育者は「サポーターであり、フォロワー」なのだと思います。つい、保育の世界では「保育者が主役」なイメージを持ち、「子どもが作品」という意識になる人もいるとは思いますが、よくよく考えていかないといけないですね。そして、その根底には「大人は完成された人間で、幼児は未発達で無垢な存在」といったイメージがそうさせているようにもおもいます。

 

しかし、この「白紙論」こそ、最近では否定されてきています。藤森平司氏は著書「保育の起源」の中で「赤ちゃんの知的な活動は大人より活発で、想像力や学習能力はおとなよりはるかに高いのです。赤ちゃんはおとなより多くの情報を収集し、自由に発達する能力は持っていますが、それはまだ概念や分類で整理されておらず、抽象的なカテゴリーに情報を整理することができません。」と言われています。そして、「次第に言語を習得するにつれて、自由な思考は概念化され、いろいろな行動の記憶として残し、それに対する責任を感じるようになる。つまり、従来の幼児教育が想定していたように、幼児教育は白紙に知識を描いていくのではなく、無秩序で豊かな子どもの想像力を社会のルールで整理し、具体的な形に整えていくものなのです」と藤森氏は言います。

 

考えてみると、赤ちゃんはその泣き声で大人を使います。そして、大人も赤ちゃんをほっとけないのです。これは遺伝子的にもそういった性質があるということを聞きますが、すでに赤ちゃんは母子関係や周りの社会にすでに能動的に働きかけているともいえます。これまでの赤ちゃん観や子ども観は今の時代見直さなければいけないところに来ているように思います。

保育をする上で

「保育」と聞くとどういったことが思い浮かぶでしょうか。私は保育士になりたてのときは保育士は子どもたちにいろんなことを「教えなければいけない」仕事だと思っていました。そのことに何も疑問を持つことはなかったのですが、見守る保育を知っていく中で、一つの疑問に当たったのを今でも覚えています。そして、「子どもの主体性」というものがイメージつかなかったのです。

 

実際、「子どもの主体性を保障する」ことを目的とするならば、自由遊びになるだろうし、設定保育ありきの保育を専門学校で習ってきた私としては「設定保育のどこに主体性があるのだろうか?」と疑問に思うことばかりでした。そして、「大人が導入をしっかりすれば、子どもたちが楽しんで遊びだす。その子どもからその遊びに参加することが主体性」と半ば強引にそう思い込もうとしていたのも事実です。そして、嫌がる子どもが出てくるのは「保育者の能力不足だからだ」とも思っていました。しかし、それは結果として「子どもの主体性」ではなく、「保育者のエゴ」でしかないのです。

 

では、そもそも教育の原点とはどこにあるのかというと教育基本法の「教育の目的」にある「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質」を備えるための基礎を養うことが教育の目的であり、保育はその基礎を培うということが目的になっています。つまり、教育や保育をする上で社会を知ることは非常に重要です。

 

現代社会では今、かつてない少子化に直面し、AIの発達、グローバルな社会などが予想され、これまでにない社会の形態に変化していこうとしています。それに伴って、産業界や市場の望む人物像の変化(自分の頭で考え、想像し、責任をとれる人)、IT環境の発展など育つ環境の多様性に応じて、従来の学びと違うシステムの必要性、一人親家庭などの家族履歴の多様性など社会問題が起きています。また、子どもの社会でも不登校やひきこもり、若者の現代うつ、いじめ、小1プロブレムや学級崩壊なども問題になっています。

 

つまり、これまでの教育や保育の内容がばっちりというのであれば、これらの問題は起きなかったのかもしれません。特に最近の脳科学の飛躍的な進歩において、乳幼児期の教育の重要性は増していると感じています。しかし、そのアプローチはどうあるべきなのか。

 

新宿せいが保育園 園長の藤森先生は著書「保育の起源」の中で「一番重要なのは、子どもを全面的に信じることです」と言っています。そして、「社会を構成するひとりの人間として子どもを尊重し、子どもが自ら自身の力を存分に発揮できるよう環境を構成し、子どもの発達を保障すること」といい、それが「見守る保育」に一番重要だと言っています。

現在、自園ではこの「見守る保育」を実践したいと思っていますが、その目的は「見守る保育」の形を求めることではなく、教育基本法にも書かれている通り、「社会の形成者として必要な資質」を備えた人材となるという目的は保育をする上で忘れてはいけない事柄ですね。

民主主義とは・・・

教育基本法の第一章(教育の目的)の第一条に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあります。そして、保育や教育の勉強をしていけばしていくほど、この内容の重要性を感じます。そのため、今行われている保育や教育が果たして「平和で民主的な」ものに向かっているのか、「社会の形成者」を育成する枠組みになっているのかと考えるようにしています。

 

麴町中学校の工藤勇一氏は著書「学校の『当たり前』をやめた」という本の中で度々、「学校は社会でよりよく生きていくために学ぶ場」と言っています。そして、社会の中で多様な人と生きていくために感情のコントロールをし、対話を重ねながら納得できる目的を探り当てて手段を生み出すことが大切だと言っています。そして、これこそがよりよい民主主義社会に成長させることにつながると考えられています。もちろん、そのなかで対立も起きます。民主主義において、この対立を解決するためにルールや法律がありますが、その法が間違っているならば適切な手続きで変える必要があると言っています。

 

また、民主主義の定義においても多数決の原理がすべてではないと言っています。「選挙で代表者を選ぶ仕組みは当然必要なものだと思いますが、選挙で多数派となれば、何をやっても許されるという話ではありません。多数決の原理と同時に、少数意見を尊重することが、民主主義社会の真の姿でしょう」と言います。しかし問題なのが、少数派の意見をどのように取り上げ合理形成を図っていくかです。このプロセスに我々が慣れていないがゆえに、無駄に対立したり、議論がこじれて思わぬ方向へ行ってしまったりすることがあるというのです。

 

対話を通じて上位目的の合意形成を図るには「ルールを踏まえて建設的に主張する」「意見の対立や理解の相違を解決する」「感情をコントロールする」といった力を一人一人がたかめることで健全な市民性が育み、民主主義社会を気付く土台となるのです。そのため同じ目的を目指して話し合いを解決していく経験をすることで、対立を恐れることなく、協働して何かを決めることができるようになります。そして、その経験値を上げていくために学校教育が果たす役割は大きいと言います。

 

現在、リーダー指向が弱まっている感があると工藤氏は言います。そして、その背景には「責任者」「当事者」として、矢面に立ちたくないという心理が働いているかもしれない。それは学校が児童生徒を「お客様扱い」し、自律する機会を持たせないまま、おとなにしてしまったことこれまでの教育のあり方を考えなおさないといけないのかもしれないと言っています。

 

「自分自身に自信があるか?」といった問いにどれだけの人が手を上げれるでしょうか。その裏には「自分で決める」「自分で問題を解決する」といった経験値が足りていないからなのかもしれません。以前、私はある人に「頭で考えるよりもまず行動だよ」と言われました。しかし、自分の中では行動している「つもり」だったのです。今の現状は自分が動かざるを得ない状況になったので、その意味が分かるようになってきました。子どもたちも一緒で「自ら」動いているのではなく、大人に「動かされている」ようでは自律はしていかないのだと思います。そして、結果的にそれは民主主義にもつながらないのです。子どもたちにとって必要な距離感を考えることは教育や保育にとって、知識や技能をつけさせるよりも大切なことだと思います。