保育をする上で

「保育」と聞くとどういったことが思い浮かぶでしょうか。私は保育士になりたてのときは保育士は子どもたちにいろんなことを「教えなければいけない」仕事だと思っていました。そのことに何も疑問を持つことはなかったのですが、見守る保育を知っていく中で、一つの疑問に当たったのを今でも覚えています。そして、「子どもの主体性」というものがイメージつかなかったのです。

 

実際、「子どもの主体性を保障する」ことを目的とするならば、自由遊びになるだろうし、設定保育ありきの保育を専門学校で習ってきた私としては「設定保育のどこに主体性があるのだろうか?」と疑問に思うことばかりでした。そして、「大人が導入をしっかりすれば、子どもたちが楽しんで遊びだす。その子どもからその遊びに参加することが主体性」と半ば強引にそう思い込もうとしていたのも事実です。そして、嫌がる子どもが出てくるのは「保育者の能力不足だからだ」とも思っていました。しかし、それは結果として「子どもの主体性」ではなく、「保育者のエゴ」でしかないのです。

 

では、そもそも教育の原点とはどこにあるのかというと教育基本法の「教育の目的」にある「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質」を備えるための基礎を養うことが教育の目的であり、保育はその基礎を培うということが目的になっています。つまり、教育や保育をする上で社会を知ることは非常に重要です。

 

現代社会では今、かつてない少子化に直面し、AIの発達、グローバルな社会などが予想され、これまでにない社会の形態に変化していこうとしています。それに伴って、産業界や市場の望む人物像の変化(自分の頭で考え、想像し、責任をとれる人)、IT環境の発展など育つ環境の多様性に応じて、従来の学びと違うシステムの必要性、一人親家庭などの家族履歴の多様性など社会問題が起きています。また、子どもの社会でも不登校やひきこもり、若者の現代うつ、いじめ、小1プロブレムや学級崩壊なども問題になっています。

 

つまり、これまでの教育や保育の内容がばっちりというのであれば、これらの問題は起きなかったのかもしれません。特に最近の脳科学の飛躍的な進歩において、乳幼児期の教育の重要性は増していると感じています。しかし、そのアプローチはどうあるべきなのか。

 

新宿せいが保育園 園長の藤森先生は著書「保育の起源」の中で「一番重要なのは、子どもを全面的に信じることです」と言っています。そして、「社会を構成するひとりの人間として子どもを尊重し、子どもが自ら自身の力を存分に発揮できるよう環境を構成し、子どもの発達を保障すること」といい、それが「見守る保育」に一番重要だと言っています。

現在、自園ではこの「見守る保育」を実践したいと思っていますが、その目的は「見守る保育」の形を求めることではなく、教育基本法にも書かれている通り、「社会の形成者として必要な資質」を備えた人材となるという目的は保育をする上で忘れてはいけない事柄ですね。