6月2021

愛着の理論

赤ちゃんは人によって愛着のパターンを使い分けるということをゴプニックは言っています。人により、安定型や不安型、回避型などのパターンを自分の発する信号をどのように養育者が受け取るかによって統計的に証拠を集めます。そうすることで、自分がその大人に対して、どのような愛着のパターンをとることが良いのかを選ぶようです。もちろん、赤ちゃんの気質や遺伝要因によって、愛着パターンに影響が出ることもありますが、環境による要因からの影響もあるのです。

 

では、赤ちゃんにおける安定型と非安定型(回避型など)において愛の理論というのはちがうのでしょうか。これについて、スーザン・ジョンソンは、1歳児の愛着パターンが安定型か非安定型かを、アニメーションを使ってテストしました。その研究により、愛の理論が違うことがはっきりと示されたのです。画面には「母親」を表す大きな丸と、「赤ちゃん」を表す小さな丸が出てきます。大きな丸は坂を上っていこうとしており、小さな丸は坂のふもとにいます。2つの丸は本物の人間のように交流します。ある時点で「赤ちゃん」は体を震わせ始め、そこに本物の赤ちゃんの泣き声が重なります。そして、ストーリーは二通りに分かれます。1つは、「母親」が坂を下りて、「赤ちゃん」のところへ戻ってくるもの。もう一つは母親がそのまま赤ちゃんを置いて坂を上ってしまうものです。

 

安定型の赤ちゃんは自分の理論をもとに「母親」は戻ってくると予測したので、戻ってこない不思議な母親の出てくるアニメの方を長く見つめていました。ところが、これと正反対の理論を持つ非安定型の赤ちゃんは、母親は行ってしまうだろうと予測したため、「母親」が戻ってくる方のアニメを長く見ていました。

 

また、ジョンソンは先ほどの実験とは別に、今度は小さな丸で表現された「赤ちゃん」の行動を予測させる実験もしてみました。するとやはり、愛着パターンによる違いが認められたのです。安定型の赤ちゃんが「赤ちゃん」が「母親」の方へ行くだろうと予測したのに対し、非安定型の赤ちゃんは、このような予測をしませんでした。実験に参加した赤ちゃんたちは、幼い子ではまだ12カ月でしたが、早くも愛の理論をもとに行動予測をしていることが分かったのです。

 

このような赤ちゃんの愛着パターンは5歳・6歳になってから、愛をどう表現し、考えるかということと関連していることも分かりました。この年齢になると愛に関わる予測や反実仮想ができるようになります。たとえば、ある子どもの親が旅行することになりました。この子はどんな気持ちになりますか?この子はどうしたらいいですか?と質問したところ、赤ちゃんの時に安定型だった子どもは、その子の気持ちを予測し、適切な行動を提案しました。(電話を掛ける。母親の写真を見るなど)、しかし、回避型だった子どもは、その子が悲しむまではわかるのですが、役に立ちそうな提案ができなかったのです。(自分自身が別離の悲しみを表現しないから)

 

つまり、赤ちゃんのころにもった、愛着の理論であったり、予測といったものが幼児に上がったのちにおいても、影響を受けるのです。という事を考えたときに私は思うのですが、こういった愛着のパターンをケースを多く持っておくことが重要なことなのかもしれません。以前、母親と父親では愛着のパターンの出方が違うという話がありました。それだけ、子どもたちはしたたかに大人を見ているのです。もちろん、安定した安心基地があるからこそ、多様な行動もとれるのだろうとは思いますが、それだけの社会性を持っている赤ちゃんであるというのを考えると様々な大人との出会いを通してコミュニケーションであったり、愛着の理論というものの深まりはより深まっていくのかもしれません。やはり、人は社会の中で生きていくものなのですね。

人を使い分ける

赤ちゃんの愛着のパターンには「安定型」と「回避型」「不安型」とあり、「安定型」が必ずしも良いというわけではないとゴプニックは言っています。どのパターンが良いかは子どもが成長していく中での環境によると言っています。この三つの型とさらに、もう一つ「無秩序型」というものがあります。この型は、期待が定まらず、一つの愛着パターンから別の愛着パターンへ唐突に変わってしまうタイプで、この型の赤ちゃんは、後にいろいろな問題や困難にぶつかりやすい傾向があるようです。

 

このように赤ちゃんの愛着行動には様々なパターンがあります。なぜ、このようなパターンが生まれるのでしょうか。もちろんそこには赤ちゃんそれぞれの気質もあるようですが、多くの心理学者はこういった愛着行動のパターンが起こるのは、赤ちゃんが他人が自分にどう反応するかの「内的作業モデル」をつくるためだと考えています。内的作業モデルとは、子どもの発達とともに作られる理論であり、因果マップの一種ですが、物理学や生物学、心の理論とも違った、愛の因果マップです。たとえば、安定型の赤ちゃんは、不安を訴えれば養育者がすぐ慰めてくれると考えます。回避型の赤ちゃんは、不安を訴えたら余計にみじめになると考えます。不安型の赤ちゃんには慰めてもらえるという確信がありません。こういった赤ちゃんの反応は、誰かに世話をしてもらうために行われるのです。どうすれば構ってもらえるのかを知ることは、かなり切迫した重要な問題なのです。

 

愛着における内的作業モデルにおいても、赤ちゃんはその他の理論と同じように、周囲から集めた証拠をもとに作られていきます。赤ちゃんが発する信号に直ちに反応する母親を持った子どもは安定型になりますし、赤ちゃんの様子より、自分の悩みにとらわれがちな母親を持った場合は不安型になる傾向があるのです。

 

また、愛着のパターンとは遺伝的要因から起きるものなのでしょうか。また、母子との関係だけにおいて起きるものなのでしょうか。これについてゴプニックは、「赤ちゃんというのは、遺伝的につながった母親に限らず、世話をしてくれる人であれば誰にでも愛着を抱くものです。たとえば、パパは反応がいいけれど、ママは悪いと分かれば、パパに対しては安定型、ママに対しては回避型というふうに分かれます。ですから、愛着パターンは生まれつきの気質だけで決まるということはないのです」といっています。

 

つまり、赤ちゃんは養育者である大人の様子に合わせて、対応の仕方を変えるということなのです。このことから見ても、赤ちゃんは決して、受容的な存在ではなく、極めて能動的に大人を使い分けているということが分かります。赤ちゃんなりに、大人の出方を統計し、その大人に合わせて、どのようにすれば、自分のお世話をしてくれるのか、また、その大人は自分の世話をしてくれる人なのかをしたたかに見ているのです。

愛着の型

赤ちゃんは他人の動向に注目することで、「愛の統計学」を学んでいると言います。特に母親との関係が強いのは日常の中で母親から反応パターンを学ぶことが多いからです。ただ、ゴプニックは赤ちゃんは「大勢の中で飛び切り反応の強い人がいることに気づいた赤ちゃんは、その人に頼るようになる」といっているのを見ると、必ずしも愛情のすべては母親というわけではないようです。では、この「反応が強い人」がいない場合はどうなるのでしょうか。

 

ルーマニアのチャウシェスク政権の孤児院を見るとそのことが見えてきます。当時その孤児院では、最低限の身体的欲求だけはいろいろな人が入れ替わり満たしてはくれましたが、情緒的欲求には見向きもされませんでした。特定の養育者がいなかった場合、子どもはどの人に愛情を求められたらいいか分かりません。そのため、けがをしたり怖い目に合うと、知らない人のところへ逃げていくこともありました。特定の人に愛着を示すようになったのは、養親に引き取られてからだったのです。

 

このように養育者がいないというのは極端な例ですが、そうでなかったとしても、赤ちゃんが皆同じように愛を学んでいくとは限りません。先ほどお話したアレクセイのような別離行動の愛着パターンは「安定型」と言います。このパターンでは、赤ちゃんは確実に愛を得られる人だけを信頼し、その人がいなくなれば悲しみ、戻ってくれば安心します。ところがこれとは違ったパターンを示す赤ちゃんもいます。

 

その一つが「回避型」です。この場合、赤ちゃんは養育者との交流を努めて避け、養育者が離れたり戻ったりしても泣いたり喜んだりはせず、オモチャを一心に見つめていたりします。このような赤ちゃんは、安定型の赤ちゃんほど別離がつらくないように見えるのですが、そうではないといいます。別離時の心拍数を測定してみると、このような赤ちゃんも内心はみじめな思いをしていることが生理学的に示されるのです。養育者が離れていくのを分かっており、悲しく思っているのに、気持ちを表に出せば事態は一層悪くなると悟っているかのようです。泣いてもどうせ慰めてもらえない。そうなったらなおさらみじめだから、最初から気持ちを抑えるほうがいい。ごく幼いうちにこう学んでしまったのです。

 

他にも「不安型」があります。この場合、養育者が離れるときだけでなく、戻ってきたときにも不安を覚え、いつまでも泣いてしがみついています。オモチャを乱暴になげたり、かじりついたまま泣いたり起こったりすることもあります。

 

これらの子どもの状況を見ていると「安定型」の方が一見いいように見えます。しかし、ゴプニックはそうとは限らないのではないかと言っています。本当にそうなのかどうかは後の環境によるというのです。また、子どもの愛着のパターンは文化的相違もあることもあるようです。アメリカを中心に比べると、ドイツは回避型の赤ちゃんが多く、日本では不安定型の赤ちゃんが多いようです。回避型は意志の強い頑張り屋で、不安型は密接な親子関係を望んでいるのかもしれません。特定の方が多い環境に生まれたら、自分もその型になるのが最も賢明な適応策になります。

 

たとえば、回避型であれば、子ども同士が距離をとるイギリスの私立校の運動場ではうまくやれるでしょうし、アフリカの村社会のように大勢が密集した生活では、不安型は成功を収めるでしょうとゴプニックは言います。つまり、これが先ほど言っていた「安定型が良いかというと、本当にそうなのかどうかは後の環境によるというのです。」ということにつながるのです。

愛の理論

次にゴプニックは赤ちゃんの「愛の理論」について話しています。人間の赤ちゃんは未熟な状態で生まれてきます。それは人が社会の中で生きるために赤ちゃんは他の動物とは違い、あえて一人で産めなくなっていたり、1人で育つことができなくなっていると言われています。それは、つまり養育者がいなければ生きていくことができないのです。そして、一番の養育者となるのが両親です。特に母親に関しては特に重要な意味を成します。赤ちゃんは生まれてから養育と保護を求めるために「守られた未熟さ」という進化の戦略にとって愛が欠かせなくなります。

 

では、赤ちゃんはどんなふうに愛を理解しているのでしょうか。それは養育者がいったん離れ、再び戻ってきたときに赤ちゃんがとる行動を見ると分かるとゴプニックは言います。赤ちゃんは生後間もないころは、相手がだれであってもうれしそうな笑顔と声で歓迎しますが、まもなく母親の顔と声を認識し、母親を特別に好くようになります。1歳ぐらいになると、自分を特別扱いしてくれる人たちがいること、自分はその人たちの愛を求めなくてはいけないのだということが分かってきます。1歳を過ぎるころからは、愛情と信頼を、母親以外にも、父親、ベビーシッター、きょうだいなど身近な人々に振り向けるようになります。このころの赤ちゃんの多くは 、見知らぬ人が違づくと不安を感じ、親の腕の中に逃げ込みますし、親と引き離すと悲しみます。ところが愛する親が戻ってくれば、たちまち機嫌を直し、注意を何か別のことに向けます。では、なぜ、子どもはこのような行動をとるのでしょうか。

 

そこには赤ちゃんが他人の動向に注目していることにあります。赤ちゃんは自分の行動や情緒と、他人の行動や情緒との間にある随伴関係、ゴプニックはこのことを「愛の統計学」と言っていますが、こういったことに格別な注意を払っています。たとえば、自分が笑うと母親も笑う。自分が泣くと母親も悲しい顔をし、あやしてくれることに気が付きます。他にも、自分が笑うと母親は笑うこともあるけど、悲しい顔をしていたり、別のことに気を取られていることもあります。時に自分が泣いているのに母親が笑っていたり、ひどいときには怒ることもあります。すると自分はよけいみじめになります。

 

1歳になることまでに、赤ちゃんは母親の様々な反応パターンを学びます。そして、それは母親だけに限らず、色々な人が様々なパターンを行うことを学んでいきます。たとえば、親であれば敏感に反応してくれるのに、知らない人は反応を示さなかったりするのです。大勢の中で、とびきり反応が強い人がいることに気づいた赤ちゃんはその人に頼るようになるのです。

 

このようにして赤ちゃんは人を見分け、自分を守ってくれる養育者を判断していくようですが、もし、そういった環境になかった場合はどうなるのでしょうか。このことについても、以前紹介したルーマニアの孤児院の様子から見えてきます。

子どもからの影響

ゴプニックはペリー就学前教育のように幼児期に保育をされた子どもはされなかった子どもより、経済的に豊かで、教育程度が高く、健康で、刑務所の入所率が低かったと言います。これは幼児期の体験は後の人生に直接影響するという見解と共に、その子どもの親にも良い影響を与えると言っています。では、それはどういったことなのでしょうか。

 

ゴプニックは、経済的に貧しい親たちは、プログラムを通じて自立と連帯の感覚を養いました。それは子どもだけではなく、親のほうも変わり、しかもその変化は持続したのです。子どもに自信がついて好奇心が高まるにつれ、親や周囲の人たちによる子どもの扱いも変わったのです。ペリー就学前教育のような早期教育が成果をあげるのは、これが子どもに直接豊かな体験を持たせるだけでなく、子どもの環境に、大人になるまで続く連鎖的な改善効果をもたらすからなのだとゴプニックは言っています。

 

この部分を読んで、保育をしていて感じることが多くあります。保育をしていく中で子どもが変わってくると、その親も変わってくるという姿をよく見ます。かえって、保護者の苦情をそのまま受け取り改善するよりも、息の長い改善になることもしばしばあります。そうなるのも、保護者にとっては子どもは大きな存在であり、大切な存在であるからこそ、その子どもたちがすくすくと成長している実感が分かるとかえって信頼関係を作ってくれるように感じます。そのため、幼稚園や保育園において、苦情解決というのは非常に難しく、大変なことが多いのですが、だからといって、苦情にだけに向き合うのではなく、自園の保育力という者に目を向ける必要があるのではないかと思うことが多いのです。それだけ、子どもの体験を通した成長というものが保護者に与える影響があるということを実感として感じます。

 

ゴプニックも「人間には周囲の環境に介入する能力があるということも合わせて考える必要があります。」と言っています。それは子ども自身には環境に影響を及ぼしたり、新しい環境を思い描き、作り出す能力があるということを同時に言っています。大人ばかりが影響を与えるのではなく、子どもからも影響を受けているのです。つまり、これまで考えられていた大人から子どもといったサイクルの逆に、子どもから大人へのサイクルも大いにあるということです。そして、親や第三者は、そこにうまく介入することで、このサイクルが悪い方に行かないように食い止めたり、悪い循環を良い循環に好転させ、強化することができるようになるのです。

 

このことからみても、世界中でなぜ「子どもの社会への参画」というものが広まっているのかということが見えてきます。子どもは決して大人の従属物でもなければ、一つの人格を持った個であるという事をもう少し、考えなければいけないのでしょう。そうなったときに子どもに迎合するのではなく、抑圧するのではなく、あくまで一人の人格者として向き合う必要があるのですね。