「意識」の変遷

ゴプニックは子どもの意識の研究は哲学の重要な議論にも新しい光を投げかけると言っています。これは哲学の歴史における「意識」というもののとらえ方ですが、およそ100年前までの哲学では、私たちの行動は意識体験が引き起こすのだと考えられていました。つまり、自分の心を探れば、行動のもとになった概念や感情、判断が見つかると考えられていたのです。これをデカルトは「内省」と呼びました。デカルトは私たちが確実に知りえるのは意識体験のみであると主張し、ウィルヘルム・ブントやウィリアム・ジェイムズといった初期の科学哲学者もこれを踏襲しました。東洋の哲学や心理学で重視される内観瞑想も、これと同じものです。

 

しかし、この「内省」は厄介な矛盾もはらんでいると言います。「自分の心を見つめると、心の働き方も変えてしまうのではないではないか。」「監視人であり、自伝作家であり、経営者である内なる自己を、わたしたちは本当に体験できるのだろうか」という疑問が出てきます。これについてヒュームはこれを否定しました。ヒュームは「自己とは幻想にすぎず、探ろうとすれば消失するものである」と言っています。仏教においてもこのことと同じことを教えています。では、ヒュームのいうように「自己は最初からない」のでしょうか。それとも、「あることはあるけど、見つめようとすると消えてしまう」のでしょうか。また、これまでの考えのように「内省により、ありのままの意識体験を捉えるのは無理」なのでしょうか。

 

これについて科学的心理学の発達につれ、内省はいろいろな誤認をもたらすことがわかってきました。意識体験は、行動や心理学的な証拠とあきらかに矛盾することがあるのです。たとえば、以前外部意識の話で紹介した、不注意による見落としの実験では、ビデオの全場面を注視しているつまり意識下にあるにもかかわらず、ゴリラが通過したことを見落とした例や、 盲視者がある物体に手を差し伸べて、触ることができるという行動ができるのにもかかわらず、その物体を見るという外部意識の入力はそこでは起きていないといったこと。実際に経験するという意識体験をしていない出来事にも関わらず詳細な記憶といった内部意識を持つ例などを見ると分かります。また、実行制御にしても、本人は合理的だと確信している判断にも、無意識のうちに非合理なバイアスがかかることがあります。つまり、実際のところできないはずであるにもかかわらず、意識体験を通して体験しているという矛盾です。

 

これらの現象においては、そのいずれの場合においても、私たちはいるはずがないと分かっている頭の中の監視人、自伝作家、経営者を兼ねる脳内の小人「ホムンクルス」の存在を感じます。こういった一種の矛盾は確かにあります。いくら意識下に入っているとしても、それが認識しているとも限りません。逆に意識下になかったものであっても、体験しているように記憶できるものがあります。これは大いなる矛盾です。

 

こういった矛盾に対して、ダニエル・デネットなどの一部の哲学者は、意識は実在しないという過激な主張をしています。