6月2021

赤ちゃんの模倣

道徳性は「他人と自分の関係についての基本的な考え方」とゴプニックは言っています。つまり、それは自分の気持ちだけではなく、他人の立場に立つことが想定できていないとできない部分があります。そこで重要になってくる能力が「共感能力」です。また、その始まりに新生児の頃から他人に共感できるだけではなく、自分が相手と感覚を共有しているということも認識できているということが分かってきています。新生児の頃から相手の感情を自分に取り込めるのです。では、こういった研究はどのように進められ、どのように解明されてきているのでしょうか。

 

これまで、この新生児の活動はあまり深い意味としては注目されていませんでした。しかし、このような新生児模倣は、赤ちゃんに生まれつき備わった深い共感能力を示すものだと分かってきたのです。たとえば、新生児は人の表情をまねします。しかし、新生児は自分の顔を一度も見たことはありません。そのため、他人の表情を模倣するときは自分の感覚だけが頼りです。たとえば、母親の顔からピンクのものが出くるのが見えたら、それを自分が舌を出す感覚と結びつけられなければ、真似はできません。ところがなぜか新生児は自分が舌を出すときの感覚は、母親が舌を出すときの感覚と同じだと知っています。つまり、特定の表情は特定の運動感覚を反映していることを、なぜか生まれつき知っているのです。

 

顔の表情は、運動感覚だけでなく情緒も反映します。世界中どの国でも、唇の隅をキュッと持ち上げ、目の周りをしわくちゃにしたら、それは幸せな表情です。歯をむいて眉を顰めたら怒った表情です。赤ちゃんは舌を出すといった簡単な仕草ばかりでなく、感情のこもった表情も真似することができます。つまり、顔の表情を、運動感覚だけでなく、情緒とも関連付けられるのです。

 

この感情のこもった顔を赤ちゃんが模倣することで情緒を豊かにする訓練をしているのではないかとゴプニックは言います。感情のこもった表情をすると、それだけでその感情がわいてきます。これは以前、紹介した「シンク・シビリティ 礼儀の正しさこそ最強の生存戦略」にも礼節を持つ一つの事柄に、「まず笑顔でいることの大切さ」を紹介していました。また、アフガニスタンで駐留しているアメリカ人が現地の人に囲まれたとき、指揮官が銃を下ろして、笑顔を見せることを部下に命じたところ、現地の人との有効な関係が作ることができたというように、笑顔は自分のみならず、相手にも大きな影響を与えます。赤ちゃんにとってはこういった感情のこもった表情をすることで、自分が何だか幸せな感じがしてい来るのを感じ、相手もそうなのだろうと推測するのです。

 

赤ちゃんの模倣は生得的な共感能力の表れであるとともに、その共感を広げ、精緻にしていく手段でもあるのです。赤ちゃんはうまれつき、ママの喜びや痛みは、自分の喜びや痛みと同じものだと知っています。そこからさらに、いろいろな表情の模倣をしながら、人間の複雑な情緒を学んでいくとゴプニックは言います。

子どもの道徳観②

最近の発達研究では、子どもにも多少の道徳観があることが示されています。ただ、生得的な知識をもってはいるものの、成長につれて世界を学習し、世界と自分を変革する能力を持っています。世界を知ることとその変革を思い描くことは車の両輪のように行われていることはこれまでのブログでも紹介しました。最近の研究ではごく幼い子ども、早い例では新生児でも基本的な道徳感がみとめられることが分かっています。生得的で不変の「道徳文法」、固定的な情緒反応もあります。ただ、それだけに限らず、子どもでも大人でも、世界や自分自身についての知識が深まるにつれ、道徳的思考も修正されていきます。特に子どもは、世界についての理論の変革能力が高いように、道徳的な判断や行為の変革能力も高いと見られます。

 

では、そもそも「道徳」というものはどういったものを指すのでしょうか。私たちの道徳観というものは「他人と自分の関係についての基本的な考え方です」。「他人にしてほしいと思うことは何でも同じように他人にしてあげなさい」や、「自分がされて嫌なことは人にはしない」とよく言われますが、この道徳的要請は、考えてみると人が他人の立場に立つことができるという想定に基づいています。さらに「犯罪」で考えてみると、悪いことをした罪や責任を問えるかどうかは、「それが意図的だったか」それとも「偶然起きたか」がその分かれ目になります。これが法原理における「犯意」という考え方です。法制度も、法より前に道徳的に守るべきルールがあることを前提に作られています。

 

このことを踏まえたとき、ピアジェが、子どもは純粋な道徳的知識を持たないといった背後には、子どもは他人の立場に立ったり、他人の意図を推察したり、抽象的なルールに従うことはできないというところにありました。しかし、ピアジェの子の想定は現在の科学では否定されています。なぜならば、子どもには生まれつきの共感能力があることが分かったからです。新生児は他人に共感できるだけではなく、自分が相手と感覚を共有でしている子とも認識できます。相手の感情を自分に取り込めるのです。1歳児は、意図的な行為と偶然の行為を区別できますし、純粋に利他的な行動もとれます。3歳児は愛と思いやりという基本的な道徳観を身につけています。こ

 

ゴプニックはこういった幼児期の研究は、人間がお互いをいたわり合う理由を解明する手掛かりをくれると言っています。そして、それとは逆に互いにひどい仕打ちをし合うのはなぜかということへのヒントも与えてくれます。それは人間の道徳的な成功だけではなく、失敗や弱点にも新たな光を投げかけます。ごく幼い子どもでも、おとなと同じように怒りや復讐の衝動を持つことや、人を社会集団に切り分け、自分のグループをひいきしたり、一見無意味なルールでも、決められた以上はしたがうなどということが分かってきているといいます。

 

こういった子どもたちの行動は保育をしていると当たり前のように行っています。怒りや復讐の衝動などは、1歳児でも見えてきます。これらを道徳観とつなぎ合わせて見ることができるかということが重要なことで、研究を通して、子どもの新しい見方を得ることはとても勉強になります。こういった一つ一つの行動は親と子どもだけでは得ることができません。子ども集団での関りは道徳観においても、とても重要な環境なのだろうということが見えてきます。

子どもの道徳観

物事の因果関係から、過去や未来における見通しを赤ちゃんがもてるようになることや愛の理論を持つことの次にゴプニックは赤ちゃんの持つ道徳性について紹介しています。そもそも赤ちゃんに物事の良し悪しを判断する能力はあるのでしょうか。そして、その力どのように獲得していくのでしょうか。

 

そもそも道徳とは世界はどうあるべきか、人は何をすべきかを問うものであるとゴプニックは言っています。これまでの哲学者や心理学者は赤ちゃんの道徳性について、無縁なものであると思われていました。発達心理学者のジャン・ピアジェも、ローレンス・コールバーグも、子どもには道徳は理解できない、真の道徳観念が育つのは青年期以降であると言っています。子どもにとって、何が善で何が悪か、何が正しくて何が間違っているかは、ご褒美と罰、社会的な慣習で決まるのだと考えられていました。たとえば、親の言うことは正しくて、罰を受けるようなことは間違っているというのです。コールバーグは、純粋な道徳的理性を身につけられる人間は、大人でも一部しかいないと考えられていました。

 

ところがここ数年で、心理学者の中に、こういった考えを否定し、道徳性は人間にとって生まれつきのものだと主張する人たちが出てきました。ゴプニックによると、生得的な道徳観というのは、言語学者チョムスキーの言語観とよく似た考えです。それによると、更新世(役180万年前~1万年前)の間に芽生えた普遍的な道徳観が、私たちの道徳的思考を生涯つうじて制約しているというのです。これは「様々な言語の基礎には共通の普遍文法があるというチョムスキーの説のように、表層的な文化の違いを超えた普遍的な道徳文法のようなものがあって、そこから生じる道徳的直感の兆しが幼児にも認められる」といったものです。つまり、人における基本的な道徳観というは仮に文化をとおしたものであっても、その根本的にある道徳観念は大昔から変わっておらず、その始まりは幼児期から見られるというのです。

 

これとは別に違った生得説もあります。そては「道徳は知識ではなく感覚から生まれる」というものです。人間の道徳観は生まれつきのもので、固定された情緒反応だから、自意識をもった大人の推論による修正はほぼ不可能だというのです。つまり、これは道徳観とはそもそも持って生まれたもので、それ自体大人になったからといった変わらないというものです。ゴプニックはこの説に立つと、自分たちには道徳に関する新たな思考や発見、成長の余地がほとんど残されていないことになると言っています。

 

ゴプニックの著書によると最近の発達研究によると子どもでも多少の道徳観は持っているようです。では、子どもたちは道徳観をどのように持っているのでしょうか。そして、それはいつから、どのようについていくものなのでしょうか。

過去から未来

赤ちゃんの頃から因果関係を学び、人間は反実仮想を用い過去を予測することや自伝的記憶を用い過去を回想するといったことができるようになります。では、なぜ人間はこういった過去や過去の反事実に投資することをするようになるのでしょうか。それは、もし、過去がなければ、私たちに未来もないからだとゴプニックは言います。未来を思い描き、その実現に向けて介入するとき、わたしたちはその時点で、未来の自分の運命を真剣に考えているのです。未来の自分を大切にできない人間は現在の生活も大切にしようとしません。

 

ゴプニックは「もしも未来の自分が今の私とまるで違う人間になり、人生は生きるに値しないと思うなら、彼女が人生の幕を閉じることに反対しないでしょう。人は未来の自分のために多大な犠牲を払えるのです」と言っています。確かに、我慢ができない人はその後のことが予想できないのではないのだろうかとニュースの事件を見ていると感じてしまうことがあります。特に感情的になり、事件やトラブルを起こすときは未来のことにまで気が回っていないことが多いのではないかと思います。

 

ただ、その予想の未来もどんどん過去に送られていきます。その結果、自分の人生への責任は両方向に及ぶことになるのです。未来を重視させている心の装置が、過去も重視させているのです。事実、自伝的記憶と未来を創造する能力は神経学的に関連があるという証拠も見つかっているようです。過去を想起するときも、未来を予測するときも、同じ脳領域が活性化するのです。つまるところ、過去への責任は、現在の自分に深い影響を及ぼします。そういった意味では、幼児期の後の人生に及ぼす影響は、複雑な相互作用や確率の積み重ねから生じるものばかりではありません。記憶そのものがその人の人生にとって終生重い意味を持ち続けるというのです。過去の自分があるから今の自分があるのです。

 

このように過去の重要性において、特に幼児期の記憶には、特別な道徳的な奥行きと痛みが伴うと言います。大人になってからの体験なら、多少は自分でコントロールできます。思い描いた可能性の実現に向け、自らの意思で行動し、それらの行動が過去の出来事として固定化されていくのです。わたしたちが過去の出来事に満足したり後悔したり、誇りや罪の意識をもったりするのも、そこに自分の意志が働いていたことを知っているからです。

 

しかし、大人と違い、子どもはその体験を受けるのは多くは受け身です。子どもの頃の体験については、当人よりも親をはじめとする養育者の方が、はるかに大きな責任を負うのです。そのおかげで子どもは、知識や想像力を養うために大切な探求を自由にすることができるわけなのです。大人は子どもの体験において、将来起こることを決めることはできません。大学や結婚相手も選ぶことはできないのです。しかし、幼いうちにどういった体験をさせるかというのであれば選ぶことができます。つまり、大人は子どもたちに対して、決めることはできませんが、子どもの後の人生で非常に重要な意味を持ってくる環境や体験をコントロールすることができるのです。

愛と生存戦略

動物の様々な種によって仮親行動が見られます。しかし、なぜ、他人の遺伝子を守るためにこんなに多くのエネルギーを使うのでしょうか。そこには何か意味があるのでしょうか。仮親行動をする種には、色々と他と違った特徴が見られるようです。こういった種は比較的小さな血縁集団をつくりますが、その社会は複雑で、メンバーは互いに協力し合って暮らし、強い子育て欲求を持ちます。社会的単婚を採る鳥のように、母親だけでは子どもの面倒を見切れない場合には、仮母が育児を手伝います。サルにおいても、長距離を移動するのに、母親だけでは赤ん坊を運べないサルには仮母が広く認められます。しかし、こういった種の行動は仮母によってさまざまな利益を得ることができるようです。

 

種によっては、仮親がいないと赤ちゃんが育たないことが見られます。次に、血縁関係にある子どもの成長を助ければ、自分の遺伝子の一部を残ることもできます。お互いの子育てを手伝うことで、どちらも助かることになりますし、仮母をすることで子育ての経験値を上げることにつながり、自分が本当の親になったときに役に立ちます。こういった要因は種によっていろいろ組み合されているようなのです。

 

その他にも人間の仮親行動には、今あげたような生態学的な要因以外の背景もあります。人間は通常、一度に1人の子どもを育て、多くても生涯せいぜい十数人しか育てません。そして、複雑で緻密な社会ネットワークをつくり、多くのことを協力し合って行います。一方で人間の子どもは、他の種よりも格段に手間がかかり、成熟するまでの期間が長いうえに、必要な学習量がどんどん増え、手間のかかる養育期間はさらに延長されました。その結果、仮親も、社会的単婚も、人間に一番近縁な大型類人猿より、はるかに普及することになったと考えられるのです。

 

子どもの成長期間を延長するといった人類の進化戦略は、大人の寿命も延長させたらしく、人間の女性は、とても長い期間を子育てにあて、妊娠能力を失った後も長生きします。ヒトの寿命はチンパンジーよりも長く、ホモ・サピエンスはほかの原人より長生きだったと思われるのです。しかし、それは考えようによっては二重の災難をもたらすことになります。発達過程にちょっと手を加えたばかりに、子どもはこんなに長い間勉強するはめになり、女性はおばあちゃんになっても子どものお守りをさせられることになるのです。

 

人が子どもを愛するということは、親にとってだけではなく、それ以外の人における恩恵も多くあり、人が人であるために必要なことなのです。人は成長と共に変わっていきます。信念や情緒のどれが生まれつきのもので、どれが後の学習や想像の産物なのかを見分けるのは簡単ではないのです。しかし、わたしたちが親子関係を超えて子ども全般を大事にするのは、進化的な要請からきていると思われるとゴプニックは言います。

 

そして、人間における子どもという存在は両親の遺伝子を再現する以上の役割を担っているだけではなく、世代から世代へと知識を蓄積して、環境に適応し、人間の方からも新しい環境を作り出すことで生き延びてきたというのです。その観点から考えると、子どもたちに長期にわたる教育を行い、必要な能力を身につけさせることは社会のすべての成員に望ましいことになるとゴプニックは言います。

 

つまり、長い教育期間を持ち、子どもに知識を与えることは人間社会の発展に大きな意味があるということが言えるのです。知識の伝承が行われていく環境を人間は作っていくことで、今に至る生存戦略を進めることができたのです。