2月2021

赤ちゃんの能動性

現代においては環境要因による学習や体験といったものが大きな影響が出ると考えられることが多く、そのため早期教育においてもこの考えが強く反映されているのだろうということが分かります。しかし、生得的な要因も決して影響がないとは言えなく、赤ちゃん全員が同じ環境にあったからといって、必ず同じ結果が約束されるというわけでないのです。つまり、これは環境を中心とした体験や知識によって起きることではなく、生まれもった能力というものも影響があるということが見えてきます。

 

例えば、言語においてはどうでしょうか。よく言語は後天的な要素、つまり環境によって獲得されると考えられていますが、生後2か月、3ヶ月から1歳くらいまでの赤ちゃんに共通する「クーイング」(「アーアー」「ウーウー」などの発語)や「パパ」「ママ」といった最初の言語は、生得的なものといわれているそうです。確かに、こういった言葉は日本だけに限らず、海外においても全世界で共通する「言語」といえます。そして、これは「言葉の始まり」であるだけではなく、親を喜ばせ、庇護を受けるための赤ちゃんの戦略であると小西氏は言っています。つまり、こういった戦略が遺伝的にあるということを考えるとこういった言語の始まりはどの時代においても、皆同様に通る発達であるのかもしれません。

 

このこととは別に重要な生得的能力があると言います。それが「能動性」です。生後1ヶ月から3か月頃の赤ちゃんは、自分の顔を手で触ったり、指しゃぶりをしたりします。4か月頃になると手と手を合わせる仕草が、5,6か月になると自分の手を足にもっていく仕草や、グーにした手を口に無理やり入れようとする仕草が見られます。さらに、手で足を触ったり、足を口に入れたりするようになります。このような仕草は胎児期から始まってます。生後と同様、胎児は自分の顔(頭)、身体、手、そして足の順番で自分の体を触り、指しゃぶりをするのです。

 

この行動は何を意味しているのでしょうか。これは「口」や「足」を触覚器官となり、「自分の存在」を確かめているのだと小西氏は言っています。それと同じ頃、聴覚や視覚も発展させていきます。「舐める」「触る」行為は、赤ちゃんが身体で感じ取るものですが、「見る」「聞く」は赤ちゃんが自分から離れたものを認識する行為です。つまり、赤ちゃんは手や足を使って「自分の存在を確認」しているのと同時に、「目」や「耳」を使って他者や周囲の世界に興味を持ち、認識し、積極的に関わろうとしているのです。そして、発達とともに歩行が加わってくることによって、近くのものから遠くのものを認識するようになるのです。

 

このように、赤ちゃんは「自分がどのようなものか、周囲にはどんな世界が広がっているのか」を確認していきます。これが人間が社会的生き物といわれる所以であり、人間が社会性を獲得するための生得的な知恵ということになると小西氏は言っています。

 

赤ちゃんを見ていると周りをジッと見つめていたり、キョロキョロと顔を動かしている様子をよく見ます。これは赤ちゃんが外の世界を理解しようとしているからこそ起きる行動なのですね。いかに赤ちゃんが受け身である存在ではなく、能動的に世界に働きかけているのかということが観察していくとよくわかります。

英才教育の盲点

子どもの能力というものはそもそもどこから来るのでしょうか。この議論は様々言われています。遺伝的に受け継がれてきたものとして捉える「生得説」と後天的な環境因子によって培われる「学習説」といった議論は科学者の間でも長年議論の対象になっています。このことにおいて、狼に育てられた子どもを育てる経験をしたシング牧師は人間の「遺伝」と「環境」の重要さを認識する体験となりました。もし、人間が「遺伝」によって人生のすべてが決まるというのであれば、社会的向上のための努力への意義は薄れるだろうと言っています。

 

今日においては「生得説」の強調は人間の可能性に限界を加えるという側面を持つからか、「学習説」が優位に語られているように小西氏は感じると言っています。イギリスの哲学者、ジョン・ロックは、タブラ・ラサと呼ばれる「人間は生まれたときは白紙の状態である。G学習や体験によって知識は得られる」という人間観を提唱し、早期教育はこの考えを全面的に支持しています。しかし、小西氏はこのことについて「これは、人間発達の一つの側面を示しているにすぎません」と言っています。

 

そもそも、「乳幼児期から頑張れば、優秀な人間に育つ」ということ自体、正しいのでしょうか。小西氏は「学習説」は人間の多くの可能性を期待させてくれるものではあるが、「誰でもそうなのか」というとそれは一種の「幻想」ではないかと思うと言っています。

 

たとえば、前に紹介した澤口氏は、親が子どもを優秀なスポーツ選手に育てたいのなら、イチロー選手の父親の教育方針は非常に参考になると言っています。イチロー選手は乳幼児期から野球の英才教育を受けたことがその後のキャリアに大きな影響を与えたというのです。しかし、この見解は、乳幼児教育でも、教育さえすれば必ず効果が上がるという「臨界期」への誤解を招く恐れがあるのです。

 

この見解は、とても考えさせられます。確かにイチロー選手のように幼いころから子どもに野球の英才教育を施せば、第2のイチローが生まれるかもしれないという可能性は否定できません。ただ、イチロー選手の父親のようなお父さんはほかにもたくさんいたはずです。何もイチローだけが野球の英才教育を行い、イチロー選手が誕生したわけではないのです。日本中に数万人ものイチロー親子のような方はいただろうというのです。つまり、これはイチロー選手の教育子言うか以前に、本人の生得的な素質があったことも無視できないのです。このことを無視して、一つのことに的を絞った極端な教育は、他の知性とのバランスを崩す可能性があるのです。さらに、途中で挫折した場合、其れしかしていない場合、親子共に大きいであることが予想できます。ほとんど一つのことしかやってこなかった子どもは、その後、何を拠り所にして生きていけばいいのかを見失ってしまう可能性があるのです。

 

小西氏は子どもへの期待を捨てるというのではなく、生得的な要素もうまく利用していかなければいけないと言います。そうすることで人間の成長に何かしら恩恵を与えてくれるものというのです。

 

保育をしていても、活動を見ていると「去年もそうしていたから」という言葉を聞くこともあり、それを聞いたときに「今年と去年の子どもは違うのに」と感じるときがあります。なにか意図があるのであればいいのですが、ただ、繰り返すだけの保育にどういった意味があるのかと思うことがあるのです。「こうすればこうなる」というのは幻想であり、子どもたち、それぞれは違うということにあまり視点が置かれていない現状が多々あります。こういった偏った知識に「早期教育の危険」というものはあるのかもしれないですね。いったい、それは誰のためなのかということをもう少し考える必要があるのかもしれません。

大切なもの

「脳機能イメージング」が発達していく中で、ここから導かれるものは何も子どもの脳機能だけではなく、お年寄りの脳機能の老化を防ぐ効果があったということも見えてきました。これはある市と国立大学の共同プロジェクトにおいて、お年寄りに簡単な計算や音読を指せると、物事を判断する役割をもつと言われる脳の前頭前野が活性化するというものでした。そして、これはお年寄りの表情や会話、歩行においても改善されたのです。

 

しかし、これも環境における影響がないとは言い切れないようです。たとえば「見る」ということは「客観性」につながるということもありますが、「誰かから注目されること」でもあります。そして、このことが効用をもたらすこともあると小西氏は言います。たとえば、スポーツ選手においても観客がいるときといないときとではそのポテンシャルが変わるように、お年寄りの読み書き計算プロジェクトにおいても、被験者のお年寄りが普段とは違う周囲の対応や新鮮な学習に感化されることで、表情の改善や歩行の機能向上につながった可能性も否定できないのです。つまり、このことは学習によってのみ、脳機能が上昇したとは言い切れないということを示してます。こういったように「人の脳機能には影響を与える因子が多い」のです。そのため、一つの機能の有効性だけを見るのではなく、総合的に見る必要があることが見えてきます。

 

そして、この研究においては、事実的なものと、もう一つの視点が見えてくると小西氏は言います。そもそも、イメージング研究によって学習効果が見られたからといって、脳機能の老化を防ぐという目的のために、お年寄りに読み書き計算をさせることが、本当にお年寄りの幸せにつながるのかということです。小西氏は「お年寄りの役割は、長い人生で得た経験や知恵を次の世代に引き継ぐことだと私は思います。」と言っています。そのため、大切なことは「人生の先輩であるお年寄りに対し、尊敬や敬愛の念をもって接することが重要ではないでしょうか」と続けています。

 

この視点は私も同様に感じるところであります。単純に学習効果だけに期待を寄せるだけが独り歩きするのは危険なことのように思います。そもそも、そういった活動は何のためにするのか、これは教育活動や保育活動にもつながる考えです。課題や成績を上げることが幸せな人生や豊かな生活につながるのでしょうか。小西氏はこのように脳への「学習効果」に期待を寄せることに対して「学ぶことの意味や生きることへの尊敬の念が抜け落ちている気がする」と言っています。

 

子どもの保育をすることに「子どもの最善の利益」が目標に掲げられています。この「最善の利益」というのは何を指しているのかをしっかりと捉えていかなければいけません。子どもたちはこれからの社会で生きていく存在であり、社会を支えていく人材です。ただ、与えられた課題をするロボットではないのです。できれば、もっと「幸せで豊かな」人生を暮らせるようなフォローができるようなものでありたいですね。

脳研究の課題

小西氏は「脳の臨界期」など脳科学の研究は慎重に取り組むべきだと言っています。そして、それには4つの課題があると言っています。ひとつめは先日紹介した「個人差の問題」赤ちゃんとひとくくりとして見ても、その姿は千差万別でありますし、睡眠量やその日の機嫌、体調によっても大きな違いが出てきます。であるから、仮に統計的に有意さがあったとしても、それがすべてとして扱うのは少し、早計なのです。

 

そして、次の問題が「動物実験の結果をそのまま当てはめられるか」ということです。結論からいうと実際のところ、動物を使った実験の結果をそのまま人間に適応するのは難しい部分があると小西氏は言います。しかも、それを人の学習や発達と結びつけるのは少し飛躍したところもあると言っています。では、なぜ、動物を使った実験を行うのか。それは人道的に不可能な環境を設定できるということと、その環境設定自体が簡単であるからなどで、人間では実験できない部分を補うためです。そのため、小西氏はラットの知能が上がったからといって、我が子と比較したり、気にしたりする必要はないと言っています。

 

次に「人の脳機能に影響を与える因子は多い」ことを挙げています。人間は、目、耳、口、手など、様々な器官からいろいろな情報を得ています。そして、複数の情報を複雑に組み合わせて日々の社会活動を営んでいます。また、こういった器官を使った、見る、聞く、触るなどの基礎的な感覚よりもさらに複雑な、思考、意識、知覚、認知、記憶、判断、意志決定、情動といった高次の機能を担う脳の仕組みがあります。これらを「高次脳機能」といいます。この高次脳機能については、分子生物学から発達神経学、生理学、医学、コンピューター工学、脳科学など様々な自然科学、人文科学の研究者が研究しています。そして、その高次脳機能に関して、人間は相手の情報を、言葉のような直接的な意味だけではなく、仕草、表情、服装、耳で聞いた声色などを複合的に見て判断を行っています。このように複数の機能を使っていることに対して、特定の機能と脳のある部分との関係性だけを見て「臨界期」において学習効果が上がるのを論じても無理があるのではないかというのです。

 

最後に「脳の機能的イメージングは万能ではない」ということです。たとえば、脳の活動を見るために以前、森口佑介氏の著書でも出てきましたが、fMRI(機能的磁気共鳴描画)を使います。これは人が例えば、手指や足指、舌にブラシでこするといった刺激を与えたとき、脳の部位がどのように活性化するかをfMRIで捉え、活動の様子を観測するというものです。こういった装置を使って脳の活動状態を観測することを「機能的イメージング」というのですが、この機能ができたことで、脳測定の技術が飛躍的に進歩しました。しかし、この方法も、デメリットがあり、脳波や脳磁場計測は空間把握が苦手であり、fMRIなどは空間解像には優れても時間の分解能が劣るのです。そのため、この方法はいくつかの方法を組み合わせて使うことが現状です。結局のところ、脳の機能的イメージング研究は、赤ちゃんや子どもを実際に「見る」こととセットで行うのがより望ましいものになると小西氏は考えています。

 

当然、様々な研究が意味のないものであるかというとそうではありません。しかし、それらの研究の結果がすべてではないということは現場としても重々承知していなければいけないことなのだろうと思います。そのうえで、こういった研究の結果と、実際の子どもの様子とをすり合わせていく必要があるのです。この項で小西氏は「脳機能と赤ちゃんや子どもの発達を長期的に見て、初めて脳のメカニズムは検証可能といえるのではないでしょうか」と言っています。保育においても、まだまだ取り組まなければいけないことは多くあるように思います。