10月2020

ドイツの変化

PISAの学力調査は各国々に多くの影響を与えることになります。そして、その国々の教育政策における問題を認識させることにもつながるのです。例えば、アンドレアス氏の出身のドイツでは2000年の調査において激しい教育政策議論が交わされました。なぜなら、その年のドイツの生徒の成績が予想を大きく下回ったからです。このことをドイツでは「PISAショック」というそうですが、これがきっかけに教育政策と改革に関する国民の議論が始まります。というのも、ドイツでは、どの学校も適切かつ平等に処遇するべく甚大な力がそそがれてきたのです。それだけに、国民はすべての学校の学習環境は当然一律だと認識していました。しかし、PISAの2000年の結果では学校が社会的経済的に恵まれているか否かによる大きな教育格差が明らかになったのです。このように生徒の成績の学校間での差が50%のドイツに対し、その差がわずか5%というフィンランドの学校の均質性を示すエビデンスは、ドイツに強い印象を与えたのです。つまり、ドイツではどの学校に入学させるかが重要な問題となったのです。

 

このことはドイツの学校制度によるものが大きいといえます。ドイツはマイスターの国でもあるように、子どもたちは10歳で知的労働者としてのキャリアとなる学問コースか、最終的に知的労働者の下で働く職業コースに分かれます。つまり、PISAの調査はこういった社会的経済的背景が有利なドイツの子どもたちは、より優秀な教育成果を残す社会的地位に高い進学校へ進めるが、あまり恵まれていない背景の子どもたちは、教育成果も社会的地位も高くない職業学校へと進んでいるということが生徒の成績の差が大きい原因であるということが分かったのです。

 

このことについてはドイツの教育者や専門家にとっては、この格差に関してはそれほど驚くことではなかったそうです。そのため、公共政策の一環として改善すべきこととはみなされていなかったのです。重要なのはこのPISAの調査から見えるのは、ドイツのように生徒の社会経済的背景が学校の成績に及ぼす影響は国によってさまざまで、ドイツよりも効果的にその影響を軽減している国々があったことだった。このことこそが、PISAによる狙いだったのです。

 

その後ドイツでは、PISAのおかげでエビデンスとデータへの新たな態勢が築かれたのです。そして、教育への国家支出を2倍に引き上げました。そして、お金よりも議論によって国内での幅広い改革の取り組みが始まり、中には革新的な改革も見られたのです。以前にも紹介したように、幼児教育に手厚い教育支援が盛り込まれ、全国教育スタンダードが学校に適応されるようになったり、移民や貧困層への支援も強化されます。そうした対策のもと、9年後の2009年にはドイツのPISAの結果はかなり改善し、質も公平性も共に大きな進展も見せました。このような各国の取り組みはドイツのみならず、韓国、ポーランド、コロンビアやペルー、エストニアやフィンランドなども、PISAの結果を受けて改善をしているのだそうです。

 

その中でも、PISAの開始当初、成績が良く、教育システムの急速な改善を見せていたのはほとんど東アジアの国々だったのです。

学力調査を受けて

PISAがもたらした最も重要な見識の一つは、「教育システムは変革可能であり、改善できるということだ」とアンドレアス氏は言っています。学校がいかなる成果をあげるかに関して不可避で固定的なことは皆無だということをPISAは示したのです。調査結果からは、「社会的な不利と学校での成績不振には必然的な関連がない」ことも明らかになったのです。つまり、学校での取り組みにおいて、成績は変わるというのです。これからの社会は流動性のある社会が求められるといいます。優秀な人が優秀な成果をあげられることが社会には必要であり、そうなっていくためには様々な不利な状況を打開する社会システムが必要になるのです。つまり、人材をうまくいかせる社会構造を作ることでより、革新的な時代となることができるのです。

 

PISAの調査結果は、現状肯定派にとっては挑戦的なものでありました。しかし、ある国が成績向上のための政策を実施することができ、社会的格差をなくすことができたのなら、他の国に同じことができない理由があるのでしょうか?とアンドレアス氏は言います。いい教育方法や保育環境を取り入れることは国にとっても有益な成果を見通せます。現状を肯定し、換えないことが良いことなのか?学校の質を保つ教育システムなど、成功すれば持続性のある安定した教育成果がもたらされることを示した国もありました。フィンランドは、PISAの最初の調査で全面的に最も成績が良かった国だが、保護者は自分の子どもがどの学校に入学しても高い水準の教育を受けられると信じられています。

 

逆に、国の成績が絶対的な数値としても、その国の期待値と比較して低いことが判明した場合、PISAが出す成績の与える影響は大きくなります。PISAが一つの尺度として見えてくるのです。国の成績と国際的な成績との差が見えてきます。このことは今の日本の教育の状況が似ているように感じます。ほかにもPISAが強力な教育改革運動を引き起こすほど、国民の注目を集めた国もありました。国民が思っている教育システムと調査結果が相反するときに非難の声は最大となり、国民と政治家が自分たちの教育は世界で最高のものだと思っているのに、PISAがそれとは異なる結果を示した場合には実に大きな動揺をもたらしたのです。

 

今の日本はまさにここにあるように思います。PISAの学力調査では読解力が落ちていると言われています。そして、それによって政策はその読解力の改善を求めて、小学校の教育を変えてきています。しかし、未だ「詰込み型の教育」への転換が視野に入れられ、学校教育は右往左往しています。これが「ゆとり教育」の弊害です。現場側と政策側がどうもうまく共通理解できていないように感じられます。しかし、政策的には学校教育も少しずつ変わってきています。学校現場の様々な対応が求められています。しかし、未だ課題は多くあり、それは乳幼児教育においても同じことが言われます。「幼保小の接続」はずっと言われ続けています。PISAの学力調査が出るたびに「学力が低くなった」というところばかりがクローズアップされますが、その改善における取組みがあまり取り上げられていないように思いますし、これまでの教育の形を変えることに対して保守的な考えは未だ根強く感じます。PISA の調査結果の受け取り方はなかなか難しいように感じます。

変遷

PISAの学力調査では、各国がどういった教育を行っているかということまで、調整してテスト内容を決めているわけではありません。当然、議論の中には生徒に学校で習得していないことをテストに出ることが不公平だという批判的なものあったそうです。しかし、アンドレアス氏は「人生における試練は、昨日学校で習ったことを覚えているかどうかを問うものではない。今日想定しえなかったことに将来対応できるかどうかが問題になる。現在の世の中では何を知っているかではなく、知っていることで何ができるかが試される」と述べています。

 

これはまさに今日本が教育改革を行う上で、目的としているものそのものです。そして、日本がPISAの学力調査において、弱い部分でもあります。日本は科学的リテラシーや数学的リテラシーは未だトップクラスに良いのですが、読解力においては大幅な低下が見られます。その中でも記述式の自由回答においては無回答が多かったそうです。つまり、問題を解くということは今でも十分すぎるほどのスキルはあるが、自分の考えを伝えることが苦手なのです。このことから日本では読解力の育成を念頭に教育が見直されることになり、それが「思考力・判断力・表現力等の育成」という教育が進められるようになったのです。

 

このように進められたPISAの学力調査ですが、その進み具合は当然順風満帆ではなく、2001年から結果における議論は白熱したものになります。なぜなら調査結果により明らかになった教育の姿は、大多数の人が思い描いていたものとは大幅に異なったからです。はじめ、アンドレアス氏が開発したシステムは、自国の成績を知ることができるが、他の国や地域との比較した結果は分からないようになっていたのです。2006年の調査結果が公表されると議論は最高潮に達します。それは各国のその時点での位置を示すだけでなく、2000年の最初のPISAの学力調査以来、状況がいかに変化したかを測定する3つのデータポイントも含めてあったからです。

 

状況が改善していないというのは政府の政策にも影響があります。しかし、政策立案者にとっては認めたくないものです。結果、政治的な圧力もかかることは避けれない状況になりました。しかし、2006年OECDに着任して間もないアンヘル・グリア事務総長は、PISAの教育改革への影響力を見出し、PISAを成功に導くべく尽力しました。

 

OECDは経済開発協力機構が日本名で、世界経済について話し合わされている中、経済の国際機関が教育についても、研究や政策が行われています。つまり、教育は経済にもつながると考えられているのです。つまり国を維持し発展させるのはその時期の大人だけではなく、もうすでに教育を受ける時点から始まっていると考えているのです。もう少し、我々はこのことを意識すべきなのかもしれません。「生きる力」といっても、なにをどう意識すればいいのかが分からない人は多いような気がします。しかし、もう少し、社会の変遷に目を向け、考えていくと「生きる力」というものが何を意味するのかは想像しやすくなるかもしれません。

PISAの始まり

国際的な学力調査で有名な「PISA」ですが、現在紹介しているアンドレアス・シュライヒャー氏はそのPISAを生み出した人でもあります。では、PISAというのは何を目的としてつくられたのでしょうか。そもそもPISAは1990年代後半にOECDにおいて、教育政策の厳密さを適用してはどうかという考えから作られました。1995年のパリでのOECDの本部では28カ国の代表と教育省高官とで最初の会議が行われました。そこで、アンドレアス氏が自国の教育システムを世界各国と比較できる国際的なテストについて提案をします。大多数は「それは不可能だ」「行うべきではない」「国際機関の時間ではない」という意見がでたのです。OCEDはそれまでにも教育比較に関する多数の調査結果を発表していました。しかし、それらは主に就学年数の測定に基づくものであり、必ずしも学校で学んだことで実際に何ができるかを示す指標にはならなかったのです。

 

「PISAにおける私たちの狙いは、トップダウン組織にさらなる層を作ることではなく、学校や政策立案者が官僚制度の中で上に向けていた目線を、次世代の教員、学校、国のために外部に向けるようシフトさせることだった」とアンドレアス・シュライヒャー氏は言っています。そして、「高精度のデーターを集め、それらをより広範な社会的結果に関する情報と結びつける。そして、教育者や政策立案者がより多くの情報に基づいて、決定できるように、これらの情報を提供する」と言っています。

 

そして、その本質は「学ぶことの情熱を育てること、想像力を刺激し、未来を築くことのできる自立した意思決定者を育成することだと考える。したがって、教師に習ったことを生徒に再現させて、習得の度合いを評価することには重点を置きたくなかった。PISAで高い得点を取るためには、生徒は知っていることから推測し、学校で習う教科を横断して考え、未知の状況に対して自分の知識を応用しなければならない。私たちが知っていることを生徒に教えることだけでは生徒は教員の足跡を追えばよいと思うだろう。しかし、学び方を教えれば、生徒は自分の行きたい方向へいくことができるのだ」と言っています。

 

このことを受けて、現場ではどうでしょうか。アンドレアス氏の言葉を使わせてもらうとすると未だ教師に習ったことを生徒に再現させて、習得の度合いを評価するというのはスタンダードです。これは小学校のみならず、乳幼児教育においても、先生の言うとおりに、政策をさせたり、一辺倒な作り方や指導中心の教育方法が行われています。それを行うことで「横断的な考え」ということができるのでしょうか。これからの社会では「関連する力」が必要だと言われています。それぞれの知識をつなげ、関連付けることでイノベーションが図られるのです。そして、そのためには教えられてできるということよりも、自分で考え動くという、考える力が必要になってきます。PISAの学力調査はそもそも、そういった各国の教育の粋を集め、より良い教育のありかたを模索することが中心にできたものなのですね。現在ニュースでも国際的な学力調査において、順位の推移ばかりが取り上げられますが、成績ばかりに注目するのではなく、その裏側にある。本質としての教育というものをしっかりと見ていかなければいけないということを感じます。

変革

アンドレアス・シュライヒャー氏はこれからのデジタル技術により、経済や社会の体制は大きく変化してくると言っています。そして、その時に「エージェンシー」(自ら考え、主体的に行動して、責任を持って社会に参画し、変革していく力)が必要になってくると言っています。そして、そのために、いかに協同し、体系的に対応するかにかかっていると言っています。そのためには、学校教育の大幅な改革が必要になります。

 

そのためにアンドレアス氏は思い切った展望と賢明な戦略と効率的な制度が必要だと言っています。しかし、現在行われている教育の現場は新たな社会が予想されている現在においても、旧態依然としたままだと、アンドレアス氏は言っています。彼が著書にはこうあります。「現存の学校制度は、産業化時代に生み出されたものである。その時代は画一かと規則遵守が重んじられ、生徒を集団で教育し、教員を在職期間にただ一度だけ訓練するのが効果的かつ効率的とされていた。生徒が学ぶべき事柄として、ピラミッドの頂点で作成されたカリキュラムは、しばしば政府の複数の階層を通過した上で、指導書、教育員の育成、学習現場に向けに翻訳され、ようやくここの教員によって教室で実施されていた」と言っています。

 

このことを見ても、「自立」を求められる時代に対して、実に「他律」が基本とした学校制度がいまだに行われているということが分かります。アンドレアス氏はこのことについて「急速に変化する世の中に反してほとんど旧態依然のまま」と言っています。しかし、社会の変容は、現行の教育システムの対応能力をはるかに凌いでいたのです。このことから脱却するためには、「教員や学校のリーダーたちのノウハウを集め、優れた政策と実践に落とし込むことが課題だ」とアンドレアス氏は言っています。

 

しかし、そこには「教員と学校の自由な創造を促し、変革のための資質能力を身につけられる環境を緻密に整備する必要がある。また、生徒を差し置き教育者や行政の利益や慣習に囚われがちな組織構造に挑むリーダー、社会変革に真摯に取り組み、想像力に富んだ政策を策定し、これまでに築いた信頼を効果的な変革に活動できるリーダーが必要だ」と続けて話しています。

 

特に「生徒を差し置き」というところは耳が痛いところです。しかし現場を見ていると、決して「さしおいて」いるつもりはないのです。ですが、実際は現存の学校制度のままです。何が言いたいのかというと、いかに我々がこういったことに「気づく」ことができていないかということです。そして、いかに「刷り込まれた」ものがあるのかということです。保育の中においても「子どものため」という名の「不必要な介入」や「意図のない活動」がよくあります。また、「これまでそうだったから」や「伝統だから」といった中身のない慣習によった活動もいまだ多く起きています。アンドレアス氏は「リーダーシップ」の重要性を説いていますが、確かに現場の教員や職員においても、こういった変革における必要性と重要性の理解をしてもらうだけのリーダーシップはますますこれから必要とされていくのだと思います。