1月2020

高校同等修了資格

ジェームス・ヘックマンは経済学の教授ですが、最初はコロンビア大学に勤め、それからシカゴ大学にうつります。2000年には、1970年代に考案した複雑な統計の方式でノーベル経済学賞を受賞しました。彼はノーベル賞受賞がもたらした影響力と名声を専門分野での足場固めに使うのではなく、研究範囲や行動範囲を以前にはほとんど知らなかった新しい分野へと広げるために使っていきます。その中にはパーソナリティ心理学や医学、遺伝学も含まれています。2008年以降、ヘックマンは定期的に招待者限定の会議を開いており、その半数が心理学者という集まりで、全員が多かれ少なかれ同じ疑問に興味を持っていました。それは「成功につながるスキルや気質とはなにか?」「それは子ども時代にどのように伸びるのか?」「どういう種類の支援策が子どもたちの助けになるのか?」といったことです。

 

こういった様々な研究をしていく中で、その後、ヘックマンのキャリアは、1990年代後半に行った高校修了同等資格(GED)に関する研究を発端に転換していきます。これは高校を中退した者が高校卒業と同等の資格を得られる手段の一つです。多くの地域で、高校を中退する割合が高い低所得者層やマイノリティの生徒たちに大学への道を開き、教育機会を等しく提供するツールであるとみなされていました。

 

このGEDの普及は、知能至上主義の見解の一つ、「学校に行くことで伸びるのも、高校の卒業証書で保障されるのも、ともに認知的スキルであるという信念」に基づいて起きています。つまり、もし十代の子どもがすでに高校を卒業できる程度の知識や知能をもっているなら、卒業まで実際に学校に通って時間を無駄にする必要はない。テストに合格すれば、高校の卒業生であること、他の卒業生と同様に大学その他の高等教育に進む準備はできていることを国が法的に保障しようということです。

 

これは特に高校に我慢ならない若者にとっては魅力的な考え方であり、GEDプログラムは1950年代の導入時以降急速に広まりました。最盛期に至っては2001年、百万人以上の若者がテストを受け、新しい卒業生のうちほぼ5人に1人がGEDテストの合格者だったそうです。そして、現在ではおよそ7人に1人になっているそうです。

 

このようにGEDテストの合格者は高校の卒業生とまったく同じように高度な学問への準備ができているとされているのですが、ヘックマンはこのことをもっとよく吟味したいと思ったのです。そして、意外なことが見えてきました。

知識至上主義から非認知スキルへ

日本でもいまだに「知能至上主義」のような教育はまだまだ続いています。様々な人生のステージにおいても、受験やテストは反復や練習を基にした形態で行われています。そして、成績や偏差値といったもので学力を測られています。しかし、こういった知能至上主義に対し、過去十年、特にここ数年の間に、経済学者、教育者、心理学者、神経科学者が集まって、知能至上主義の背後にある思い込みの多くに疑問を投げかけ始めました。

 

「子どもの発達に最も重要なのは、最初の数年のうちにどれだけたくさんの情報を脳に詰め込めるかではない」ということを彼らはいっているのです。本当に重要なのはそれとはまったく異なる「気質」、つまり粘り強さや自制心、好奇心、誠実さ、物事をやり抜く力、自信などを伸ばすために手を貸せるかどうかであるということです。経済学者はこうしたものを「非認知スキル」と呼び、心理学者は「人格の特徴」と呼び、一般の私たちはこれを「性格」と捉えています。

 

しかし、いくつかのスキルに関して、知能至上主義の背後にある単純な計算、つまり、「大事なのは早く始めてたくさん練習する」といったことは確かに根拠があるとタフ氏は言います。たとえば、バスケットボールのフリースローを落としたくなかったら、毎日の練習で20本よりも200本練習するほうが上達しますし、読解能力においても、4冊読むよりは400冊読んだ方が伸びるでしょう。機械的に向上する技能もあるというのは事実です。

 

しかし、人間の気質のもう少しデリケートな要素を伸ばすとなると、ものごとはそう単純ではないとタフ氏は言います。これに関しては長時間懸命に取り組んだからといって失望を乗り越えるのがうまくなったりはしません。早いうちから充分に好奇心のドリルをやらなかったからという理由で好奇心の足りない子どもに育つわけでもないのです。とはいえ、このような気質を身につけたり、失ったりする方法はランダムではなく、最初からついているものではありません。何かによって生じたものなのです。心理学者や神経科学者たちは、ここ数十年のあいだこうした気質がどこから生じ、どうやって伸びるのかについて研究を重ねてきました。しかし、その方法はまだ謎が多く複雑なのだそうです。

 

この「成功する子 失敗する子」を書いたポール・タフ氏は現在世界中の教室やクリニックや研究室や講義室で勢いを増している、こういった新しい考えを紹介し、児童の発達に関するここ数十年の一般通念は誤りで、間違ったスキルや能力に焦点を合わせ、間違った戦略を使ってそのスキルを教え、育てようとしていることに疑問を投げかけています。

 

しかし、現在、こうした研究はまだまだ新興のもので、新しい知識を積み上げているところです。そのため、科学者や教育者たちは孤立していることが多いそうです。しかし、そのつながりは徐々に広がっていき、学問の分野を越え議論は高まっているそうです。そして、それは子育ての方法、学校運営の方法、社会的なセーフティネットの構築方法を変える可能性を持っているとタフ氏は言っています。そして、そのネットワークの要となっているのが、シカゴ大学の経済学者ジェームス・ヘックマン氏だと紹介しています。

 

最近、様々な研修の中で、ヘックマン氏の非認知スキルの話を聞くことが多くなってきました。乳幼児期に育つ力はその後社会につながるものでもあるというのは、ここ最近ではかなりホットな内容です。

知能至上主義

保育を変えていく中で、保護者から苦情が来ることがあります。もちろん、理由がある苦情もあれば、感情的に保育が変わることが納得できないという保護者も中にはいらっしゃいます。それは決して悪いことではなく、どの保護者も子どものためを思っているということに変わりはありません。保護者は子どもたちに幸せで成功に満ちた人生を送ってもらいたいと思っているとは思うのですが、それが具体的にどういった人生なのか。今の保育が子どもにとって本当に最善なのかが不安に思っているのです。今の親はこういった不安を抱えている人が多いのではないかと著者「成功する子・失敗する子」でポール・タフ氏は言います。ポール氏はアメリカのニューヨークのような都市では特に強くこういった思いを持つ人が多くあり、人気の幼稚園に入るための競争力はまさに戦いだったと言います。

 

そして、自分たちの子どもエリントンは今後どうやら「知能至上主義」が浸透した文化の中で育つことになりそうだと思ったそうです。それは多くの人が思う。今日の社会でいう『成功』はおもに認知的スキル(知能検査で測定できるたぐいの知力で、文字や言葉を認識したり、計算をしたり、共通のパターンを射抜いたりといった能力が含まれている)の有無できまるといったものです。そして、こうしたスキルを伸ばす最良の方法は、可能な限り練習を重ねることと、可能な限り早くからはじめることと考えられています。

 

こういった知能至上主義は非常に広く受け入れられていますが、実際のところは比較的新しい発明であることを多くの人が忘れていると言います。元々は1994年、カーネギー財団が「スタート地点」(Starting points)を出版し、アメリカの子どもたちの学力の発達について警鐘を鳴らしたときに出てきた考えなのです。この本では、今の子どもたちは人生の最初の三年のうちに学力を伸ばす十分な刺激を受けておらず、それが問題であるというのです。

 

その理由となる一つは、一人親の家庭や働く母親が増えてからであり、このため子どもたちは学ぶ準備のできていない状態で幼稚園に入ることになる。というもので、この報告のおかげで、様ざまな本や知育オモチャなどの売り上げが何十億にもなったと言います。その後にもカーネギーの発見と研究は社会的政策にも強烈な影響を与えるようになります。慈善家や議員などもこれを受け、不利な状況にある子どもたちが早いうちから遅れてしまうのは学力を高める訓練が不充分だと結論付けました。そして、心理学者や社会学者は、貧しい子どもの成績不振を家庭や学校での言葉と数字による刺激が不足していることと結びつける証拠を上げます。

 

こうした研究で最も有名なのは、ベティ・ハートとトッド・R・リズリーという二人の自動心理学者が一九八〇年代に始めたものである。ふたりはカンザスシティーでホワイトカラーの家庭、ブルーカラーの家庭、生活保護家庭から集めた42人の子どもたちを集中的に研究し、子どもの教育に決定的な違いが生じる原因も、その後の子どもたちがあげる成果に差異が生じる原因も、突き詰めればひとつであることがわかったのです。それはごく幼いうちに両親から聞いた言葉の数です。

 

ホワイトカラーの親に育てられた子どもは3才になるまでに三千万語を耳にしていたことに対し、生活保護を受けている親に育てられた子どもが聞いたのは一千万語だったということが分かったのです。そのため、貧しい子どもたちがのちのち学校生活や人生一般で失敗する根本的な原因は、聞いた言葉の数の不足だというのです。

 

こういった知能至上主義は非常に分かりやすく、例えば、家に置かれている本が少なければ読解能力は低くなる。親が話す言葉の数が少なければ子どもの語彙も少ない。ジュニア公文で算数の問題をたくさんやればテストの点数は上がる。時に滑稽に思えるほどの二者の相関が厳密に示されます。さらに、ハートとリズリーの計算によると、生活保護家庭の子どもがブルーカラーの子どもとの語彙の差を埋めるには、毎週きっちり四十一時間の集中レッスンが必要であると言っています。

メンタルヘルスと保育

今回、武神健之氏の著書「職場のストレスが消えるコミュニケーションの教科書」という本を取り上げましたが、初めは社会においでどういった人がメンタルヘルス不調、いわゆるうつ病などの精神疾患にかかるのだろうか。ということからこの本を見ていきました。そして、そういった人が出てしまう職場環境がどういった問題があるのか。これは現在、保育士不足と言われる保育園や幼稚園といった施設においても、同じことが言えます。というのも、その辞める理由の多くは「職場の人間関係」や「保護者関係」といった人との関わりにおけるところに問題があるからです。

 

今の人はコミュニケーション能力不足ということが言われ続けています。間違いなく、この理由がメンタルヘルス不調にもつながっているのは間違いないように思います。そして、こういったメンタルヘルスの根底には乳幼児期の環境に問題があるのではないかということが言われています。実際、今回の本の内容をひも解いてみると、記事の中に何度も同じことを書いたのですが、それは大人(ここでいう上司と部下の部下)を「子ども」に置き換えることができますし、「上司」を「親や保育者」とも置き換えることができます。つまり、「みる・きく・はなす」という技術は保育者や教育関係者においてはより重要になってくる能力です。とりわけ、保育者は子ども・職場・保護者・地域関係とすべてが人間関係における環境がベースになります。成績などに囚われないために、そこで行うことはコミュニケーションのベースを養うことが重要になるのです。

 

武神氏は最後に「そのすべての技術の根底にあるのは『承認』です」ということを言っていました。これはビジネスコンサルティングをしている人が良く使う言葉ですが、保育においてはこの「承認」はそのまま「共感」や「安心」に置き換えることができます。つまり、大人だろうが子どもだろうが、自分の持っている能力を発揮するには、こういった関係性が大切なのです。こういった関係性があるからこそ、安心感や信頼感を覚えるのです。そして、何度も言いますが、それにおいては大人も子どももないのです。

 

武神氏は産業医として1万人以上の働く人と面談をした経験上、精神的ストレスを持っている人の多くに共通するのはこの「承認されたい」という欲求だと言っています。しかし、この裏に隠れているのは子ども時代の「承認された経験」の少なさもあるのかもしれません。今の時代、塾や習い事が多く子どもの自由遊びの時間がどんどん削られています。そんな時代で子どもたちは自分のやりたいことを存分にやっているのでしょうか。それが保障されているのでしょうか。早計な推測でしかないのですが、こういった幼少期における「遊びこみ」の少なさやその時に大人の距離感がうまくなく、自分というもののとらえ方が自分から発したものではなく、人の評価から自分を見る他律になっている中で自尊感情や自己肯定感が今の人はうまく得れていないのかもしれません。そして、それが結果として、社会に出てから問題に起きているように思えてなりません。「教育」や「保育」というもののあり方をこの本からも見えてくるように思います。

対処法

これまでは、メンタル不調者を出さないための対象の仕方が紹介されていました。では、実際、悩みや不安を抱えた人やメンタルヘルス不調の人と対話をするためにはどういったことを注意しておかなければいけないことなのでしょうか。それには5つの対処法があり、これらのことを意識する必要があると言います。

 

その一つ目が「⑴共感しても共鳴しない」ということで、これはベテランのカウンセラーでもなりうることだと言います。話している内容が深刻であった場合や相手が自分と似たような境遇であったり、生い立ちが似ていたりした場合、自分と相手を切り離して考えられないということがありえます。相手に感情移入しすぎてしまうということですね。あくまで「共感」することが大切です。共感とは相手の気持ちを受け止め、こちらから相手の感情を理解しようと積極的にすることです。しかし、「共鳴」となると、あちらが揺れればこちらも振動してしまう、相手に振り回されてしまうといった受動的なものになりよくありません。注意していても、そうなった場合、話を聞くのは1日に1人とか、リカバリーできるようになんらかの対応を考えておくとか、自分の無理のないコミュニケーションをとることが必要になってきます。

 

2つ目が「⑵拒否にも対処できるようにする」 ということです。時に、気になって声を掛けてみても「イヤ、いいです」と拒絶されることもあります。こういった場合、対処法はケース・バイ・ケースですが、1回拒否されたからと言って、それで引いてしまわないようにしなければいけないというのです。そして、何度も拒否する人に対しては個別に対策を何考える必要があるとも言っています。

 

「⑶つなぐ」 この場合は、たとえば、相手が拒否したとしても、「大変そう」と感じている時点で組織として何らかの対処をすべきであるとすることです。そういった意味では、医師やカウンセラーにつなぐということです。しかし、ここで注意しておかなければいけないことは、部下に何も言わずに産業医やカウンセラーのところに行って部下の相談をすると、産業医や健康管理士から部下に連絡が言った時に「誰が私のことを知らした」と、かえって殻に閉じこもって話をしてくれないようになりかねないことになります。ですから、「ちょっといいですか」と声を掛けた時に、拒否された場合でもきちんとカウンセラーや産業医に相談することを伝えたうえで、相談しにいく必要があります。そういったことを伝えておけば、たいていの人は上司から自分のことを伝えられるよりも、自分から面談に行こうとすることが多いようです。そのため、上司に必要なのは、まず最初に気づくことなのです。マネジメントする側やリーダーといった立場の人が察知し、適切な人、役職、場所、健康管理士やカウンセラーにつなぐことが大切なのです。

 

「⑷緊急性がある場合」 これは例えば「自殺の恐れ」などはまさにこれに該当します。「みる・きく・はなす」技術は相手を直接救うことが目的とされているわけではありません。必要なことは、話を聞いて必要に応じて専門家のところにつなぐことがコミュニケーションの目的なのです。しかし、手に負えないような自殺などのような緊急性のあるものは本人とのコミュニケーションを飛ばして、カウンセラーや産業医に連絡するなり、ご家族に連絡するなり、本人に「休め」というなり、素早い対処が求められます。

 

「⑸確信が持てない場合はどうするか」  部下についての変化を察知したとしても、自分の判断に自信が持てないことがあります。そういった場合はその部下の同僚など近い人に様子を聞くことも重要になります。しかし、ここで注意が必要なのが「様子を見てみよう」と放っておくうちに、深刻な事態になってしまうことです。だからこそ、積極的な行動は大切だというのです。

 

こういった対処法を行うような事態にならないような円滑なコミュニケーションがあることがそもそも必要なのであって、ここで言われることは最終的な関わりです。そして、その中心はやはり「きく」ということがもっとも重要な要素であるのですね。