8月2019

当たり前をやめる

工藤勇一 氏の著書「学校の当たり前をやめた。」という本を読んでいますが、そこで言われていることが今注目されています。何が注目されているのかというとそのが1つは取り組みがこれまでにないもので「服装頭髪指導を行わない」「宿題を出さない」「中間、期末テストの廃止」「固定担任制の廃止」と言ったことです。これまでの当たり前に行われていた学校教育の行い方とは真逆であり、むしろ、今まで大事だと言われたことと真逆なことが行われています。しかし、その内容をよく見てみれば、今の保育と共通することがたくさんあり、とても考えさせられます。

 

なによりもその取り組みもさることながら、この取り組みに至るまでの考えが非常に見守る保育に似ているのです。それは「目標と目的を取り違えないこと」「上位目標を忘れない」「自律のための教育を大切にする」ということです。こうしたいくつかの基本的な考え方を大切にして多くの「当たり前」とされてきたことについて見直してきたと千代田区立麴町中学校校長の工藤勇一氏は言います。

 

特に「目的と手段ー学校とはなんのためにあるのか」ということに関しては強く問題提起しています。多くの学校では宿題や定期考査に向けて、学習に励んでいます。そして、教育は学習指導要領に基づき、一人一人の学力を伸ばそうと、手厚い指導を行っています。教室には「みんな仲良く」などの目標が掲げられ、学級担任の指導のもと、「和」を重んじた学級経営が行われています。しかし、この当たり前のような学校のようすでさえ、工藤氏は疑問を持たれています。というのも、工藤氏は「学校はなんのためにあるのか」それは、「学校は子どもたちが社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにあると考えています」というのです。続けて「そのためには子どもたちは「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身につけさせていく必要があります。社会がますます目まぐるしく変化する今だからこそ、私はこの「教育の原点」に立ち返らないといけないと考えています。」と言っています。

 

このことは保育をしていても同じように感じます。保育に置き換えていくと多くの幼稚園や保育園では先生が設定する作品作りや活動を行って、時に自由な遊びをしながら遊んでいます。そして、小学校に向けて5歳児は文字の練習や園によっては英語の始まりなども行っていますが、私は乳幼児も工藤氏が言うことと同じように「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ということに関しては同じ目標であると考えています。そして、「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身につける。ということに関しても全く同じであり、学校教育においても乳幼児教育に関しても「教育の原点」とは同じ目標であると感じています。そして、今後の子どもたちが生きていくであろう未来の社会に向かうためには「教育の原点」に返らなければいけないというのは乳幼児教育からなのだと思います。

 

そして、工藤氏は「学校をリ・デザイン」していくと言っていますが、それはどのようなことを言うのでしょうか。

始めるにあたって

私は本を読むことは嫌いではないのですが、文学書や評論書といったものはあまり読み込むことが得意ではありません。しかし、これからの仕事や保育をする上で「知識を得ること」は非常に重要になってくるということを常々感じます。

 

特にこれからの時代は大きく変化が起きており、セオリーというものをもう一度問い直さなければいけない時代になってきているようにも思うのです。その時に知識というものが必要になってくる。しかし、それを得るだけでは意味がなく、生かされて利用されなければいけないとも思います。

 

「天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか。
自分はすでに天の生じたものであるから、必ず天から命じられた役目がある。
その役目をつつしんで果たさなければ、必ず天罰を受けるだろう」

と幕末の儒学者 佐藤一斎が言っているのを雑誌「致知」で知りました。

 

自分にもなにか役目があるのかもしれません。

天命を全うするためにも、学びを持つことは続けて生きていものです。

 

ここではそんな本を読み込むことが苦手な自分が日々ものからひとからも学んでいることを整理して、ブログに起こすことで、自分の学びをより深いものにしていきたいと思っています。