8月2019

定期考査

麴町中学校の工藤勇一氏は宿題だけではなく、定期考査自体も無くしていきます。それは定期考査、つまり、期末試験や中間試験において、一夜漬けをしてテストに挑むことが多いことに疑問を感じています。一夜漬けでの学習は「テストの点数を取る」という目的においては有効ですが、学習成果を持続的に維持するうえでは効果的とは言えない。テストが終わったらかなりの部分が忘れてしまうからです。そして、さらにいえば、一夜漬けで片付ける「悪癖」がつくことの弊害も少なくないと思います。工藤氏の経験で直前になってから「やっつけ仕事」で片付ける傾向があったのだが、こうした習慣も中高生時代の定期考査対策を通じて身に付いたものではないかと思うことがある。つまり、物事のギリギリまでやらず、切羽詰まった状態であわてて行う習慣をつけたのは定期考査でついた癖になってしまっているというのです。

 

そして、何よりも定期考査が法律や教育委員会規則等で決められているものではないが、全国どの中学校にも共通しているのは「通知表をつけるため」であって、定期考査の点数で生徒を序列化し評価をつけるというのです。そして、そのことについて「そもそも学力をある時点で切り取って評価することに意味はあるのだろうか」と考えたそうです。テストを実施する目的は何かと考えたとき「学力の定着を図る」ためのものと考えると「目的と手段」のねじれが見えてきました。そして、すべての生徒が効率的に学力を高められるよう学習システムの再構築を図ります。具体的には定期考査を無くし、単元テストを行う。たとえば「比例と反比例」の単元が終ればテスト、社会科なら「中背の日本と世界」の単元が終ればテストといたようにまとまり事に小テストを実施します。そして、単元テストは再チャレンジできるようにし、理解できない部分を一つずつわかるように授業を重ね、着実に学力を高めていけるようにしたそうです。そして、年に3回だった実力テストを5回に増やしました。それは実力テストは出題範囲が事前にしめされないため、生徒たちの本当の学力を測ることができるからです。

 

これらの手法は日本では非常に珍しいですね。しかし、理解できるまで付き合ってくれる枠組みというのは生徒の確実な理解につながることだと思います。海外では日本でいう「落第」を「stay」というそうです。「落ちこぼれる」という意味ではなく、「分かるまで留まる」という意味ですが、非常にポジティブなとらえ方ですね。分からないを分からないまま続けてしまうと次第とやる気も意欲もなくなってきてしまいます。しかし、自分で理解すると次の意欲につながっていきます。工藤氏は定期考査を無くすことは生徒たちに楽な思いをさせるわけではない、と言っています。ここでの工夫は「しなければいけない」ものではなく、自分の今の実力を見つめなおすものとしてのテストのあり方に見えます。つまり、それは自己評価に近いのではないでしょうか。一夜漬けでごまかすことのできない、自分の今の理解度を認める機会としてテストのあり方を変えているのだと思います。そして、もう一度やり直すチャンスもあるというのも大事なところですね。わかるのが目的であれば、一回のテストがすべてではないのでしょう。一つ一つのあり方が自分の自信につながるような工夫を感じます。

 

子どもと宿題

麴町中学校の工藤氏は宿題の全廃を行っていますが、宿題の意義を見直すと果たして宿題自体が必要なものなのか、教員自体が子どもたちを評価するための尺度というのも珍しくない中でそれでいいのかと言っています。そして、宿題をするために机に座っていることに保護者は安心するが、本当に大切なのは「勉強時間よりも勉強の中身」であり、自律的に学ぶ経験を積まないと決して工夫して仕事ができる人にはならないと言います。そして、「もっといえば、私は学校でしっかりと勉強をして、家では、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、スポーツをしたり、あるいは、ぼんやりと思索する時間のほうがよほど有意義だと思っています。そうした時間の中で、自分自身の内面や思考が整理され、大切なことにきづいたり、思いついたりすることはたくさんあるに違いありません」とあります。

 

宿題を全廃したことに一番喜んだのは受験を控えた3年生だそうです。それは「負担が減った」のではなく、自分には重要ではない非効率な作業から解放されたからであり、自分の時間を自分の考えで使えることの大切さを生徒たちは敏感に感じ取ったのではないかというのです。もしそうなのであれば、教員の望んでやらせようとしていることはまったくもって生徒たちのニーズとはミスマッチしているということになるのでしょう。そのうえで、もしそれでも宿題を出したい教員がいたら、生徒たちに「すでに十分にできる問題はやらせちゃだめだよ。よくわからない問題に頑張ってトライしてくるんだよ」と伝えるべきだというのです。それは学習は「できない問題」を「できるよう」にするプロセスでないと意味がないからなのです。そして、何より重要なのは「学校の中で学習してきたことを理解できるようにすることであり、生徒が主体的に学ぼうとする仕組みを整えることです。そのために自ら自律的に学ぶ姿勢を奪わないようにしなければいけないのです。

 

保育をする上で様々な活動を行っていきますが、そのとき保育者は「今、子どもたちはどんなものに興味があるのだろうか?」「子どもたちにとってこれから提案する活動を楽しんでくれるだろうか?」いつも自問自答しながら子どもたちと向き合っているのですが、それが一本道であると結局「させなければできない子」を産んでしまう危険性があります。しかし、その中でもやはり先生がおしえなければいけないことは多くあります。だからこそ、選択する自由の幅は必要なのだと改めて思います。子どもたちのやってみたいと自分から主体的に思えるように近づける活動が求められていくのだと思います。そして、それは社会につながる力になるのは間違いないように思います。

宿題よりも本質

麴町中学校でははじめ工藤氏が校長で赴任した当時、宿題の多さに驚いたそうです。そして、その後、段階的に宿題を無くしていき、4年を迎えるころに「全廃」に至りました。

 

当初は宿題の全廃には一部疑問を持ち、抵抗感を出す教員もいたそうです。そう言った教員の方に工藤氏は「批判や誤解を恐れずに言えば、教員が宿題を出すのは子どもたちの『関心・意欲・態度』を測り、評価(通知表)の資料とするためではないですか。もっと私たちは専門性を発揮しないといけない」と説明したそうです。そして、この問題には一つの流れがあるといい。そもそも「評価」が、かつての相対評価から絶対評価へと変わっており、その中で「関心・意欲・態度」という観点別評価を行うようになっています。通知表には、学習の理解度・到達度だけではなく、学習に対する「関心・意欲・態度」は目に見えない尺度だけに、評価するのが難しいものです。そのため、宿題の提出量や授業中の挙手回数などをカウントし、それを評価に活用していることは珍しくありません。

 

本来であれば、そうした数字に頼らず、子どもの成長や可能性を読み取るのが専門職たる教師の役割です。と言っています。そして、宿題のために学習机に向かうことで保護者は安心はするが、本当に大切なのは勉強時間よりも勉強内容であり、自律的に学ぶ経験をつけないと、決して工夫して仕事をする人にはならないと言っています。

 

「関心・意欲・態度」は保育においては「心情・意欲・態度」です。その本質を知ると決してその活動そのものに意図はないのです。「その活動で何を意図するか」のほうが大切なのです。中学校でこのことを行うのはとても容易なことではなかったのですが、多様な社会の中で生きていくためには、その中心となる意図をシンプルに考えることはとても必要とされているように感じます。やはり意図や理念、先の見通しといったものを意識することは大切です。

ただやらさせる学習

麴町中学校では現在宿題の全廃が行われているのですが、そのプロセスは工藤氏が純粋の子どもたちの様子を見て感じたところから始まります。そもそも宿題の目的は多くの学校関係者や保護者にとって「子どもの学力を高めること」「学習習慣をつけるもの」と答える人が多いと思われますが、ではその目的は達成されているでしょうか。というのです。そして、生徒の実態を思い浮かべてみると、勉強ができる子はすでに解ける問題から、あっという間に片づけてしまい。勉強が苦手やわからない子は解ける問題だけ解き、解けない問題はそのままにして翌日、提出することが多くなります。

 

本来の「学力を高めること」や「学習習慣(自ら学習に向かう力)」をつけるためには、自分が「分からない」問題を「分かる」ようにするプロセスが必要ですが、宿題にはそれが欠けているのです。わかる子どもには無駄な作業で、分からない子には重荷になっているというのです。そして、教師は宿題を出すのであれば「分からないところをやっておいで」と声を掛けなければそもそもの宿題の目的は達成できないのです。

 

工藤氏は「分からない」ことが「分かる」ようになるためには2つの作業が必要と言っています。一つは分からないことを聞いたり、調べたりすること。二つ目はそれを繰り返すことで定着させることです。そして、定着させるためには書き写したり、読んだり、集中して聞いたり、何かと何かを関連付けて覚えたりなどの方法があります。何より大切なのは自分の特性に合った方法を見つけることであると言います。

 

保育の中での活動で考えてみると、同じような状況はよくあります。子どもが作品を作っている中、やりたくなかったり、苦手な子どもがいたときにその子にどう介入するかはとても難しい問題です。以前、私が実習生だったころ、責任実習の折り紙でどうしてもやりたくない子がいました。泣き叫びながら嫌がるのですが、先生は何とか声を掛けるように言われたので、その子につきながら、ほとんど私が作り、その子は折り紙に触る程度でした。結果、全員折り紙は作ったのですが、その後その活動はやりたかった子はいいが、その泣いていた子に対しては一体どういった学びになったのだろうかと疑問に思いました。ともすれば、もしかしたら、得意な子はつまらなかったかもしれません。結果、その活動は苦手な子には重荷になってしまっていました。しかし、その活動はその子にとってはあまり意味のなさないものになっていたように思います。そして、その時に、同じクラスでも「やりたい子」と「そうではない子」がいたり、「得意な子」「苦手な子」がいるということを感じましたし、1本道の活動はこういった子どもが出てくるということを感じました。

 

現在、「選択制」で制作をするようになりましたが、それは麴町中学校の宿題の取り組みと同じような発想だと改めて感じます。そして、自由遊びは活動の中で行ったことをよりふかく遊び込める瞬間じゃないかと思っています。そして、それが意欲につながっていくのではないかと感じます。制作活動をすることだけではなく、その後の自由遊びも同時に大切であるということが分かります。そのための環境であり、幼児は特に幅が広い保育や環境を作ることが求められるということがよくわかりますし、乳幼児においても、中学生においても人が学ぶことのプロセスはそれほど大きく変わらないということを感じます。

手段が目的化

保育を行っていても、いつの間にか始めは子どもたちがやりたいものややってみたいものから始まった活動や作品作りでも、それがいつのまにか「去年やっていたから」とかいつしかそれが「伝統」という形をなしていくことがあります。そうなってくるとそのもの自体が「やらなければいけないこと」になってきます。

 

こういったことに対して工藤氏は著書「学校の当たり前をやめた」の中で現在の教育において「手とり足取り丁寧に教え、壁に当たれば過ぎに手を差し伸べる。喧嘩や対立がおきれば、担任が仲裁にはいり、仲直りまで仲介する。そうして手厚く育て挙げられた子どもたちは、自ら考え、判断、決定、行動できず、「自律」できないまま、大人になっていきます。」と言っています。

 

それは結果として大人になってから、何か壁にぶつかると「会社がわるい」「国が悪い」と誰かのせいにするような大人になると言っています。そして、それは学校教育の根本に問題があり、それが「手段が目的化」してしまっているからだと言っています。

 

「例えば国が示す学習指導要領は、大綱的基準にすぎないのですが、多くの教員はこれを「絶対的基準」と考えがちです。その実、学習指導要領を読み込んでいるわけでもなく、教科書に従って授業をしている教員が大半である。つまり、子どもたちに必要な力をつけるための「手段」であるはずの学習指導要領が「目的」となり、消化してこなす対象となってしまっているのである。」というのです。そして、工藤氏は「目的と手段を見直し、学校をリデザインするといった改革を始めます。それは「目的の本質を見極め、適切な手段を考え抜いてきたことを長い教員生活の中で感じてこられたからであるのです。そして「学校教育は多くの法令等で規定され、廃止することができない部分もあるが、大半の部分は、法令よりも「慣例」によって動いているだけで、校長が覚悟をもって、自らの学校が置かれてた立場で何が必要かを真剣に考え抜くことができればいくらでも工夫できる。」というかんがえのもの教育内容を変化させているそうです。

 

これらの話を聞いていてもすべては生徒が「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ことが意識されているのを感じます。私は保育をしているうえで、上記の工藤氏の話は学習指導要領を幼稚園教育要領や保育所保育指針、幼保連携型こども園教育・保育要領に置き換えれると思っています。そして、常々「理念なき教育はない」とも思っていますし、理念は学校ではなく、社会を見据えたものでなければいけないと思っています。そして、目的があるからこそ手段を行使します。手段だけがあって目的がないのは、英語が喋れても、喋る機会がないのと変わらないのではないかと思います。いくら勉強ができてもそれを生かせなければいけません。特に乳幼児教育は成績がないだけによりその本質を見つめなければいけないのではないかと感じています。