ルールと習慣

成功へ計画を立てるためには「実行意図」を作りだすことが必要であり、そのためには「もし/ならば」という問答のかたちで障害とそれを克服する方法を考えることがことが求められるのです。そして、そのためには「気持ちはポジティブな結果に集中しながら、途中の障害についても考える」必要があります。要するに「実行意図をともなう精神的対照(MCII)」は自分のためのルールを作る方法の一つなのだとタフ氏は言います。

 

食品医薬品局の元長官であるディヴィッド・ケスラーは著書「過食にさようなら」に「なぜルールが機能するかについて神経生物学上の理由がある」と言っています。ケスラーによるとルールを作ると前頭前皮質を味方につけることができ、つまり本能に突き動かされて反射的に働く脳の部位に対抗できるというのです。しかし、ルールは意志力と同じものではないとケスラーは指摘しています。ルールはメタ認知を利用した意志力の代用品だというのです。ルールを作ることによって、たとえば揚げ物を食べたいという欲求とその欲求に抵抗する堅い決意との間に起こる厄介な葛藤を回避できるのです。ケスラーの説明によれば、ルールとは「構造であり、魅力的な刺激との対決に向けた準備となるもの、私たちの関心をほかへ逸らすものである」ということなのです。そして、ルールはやがて欲求と同じくらい反射的に働くようになります。

 

また、このことを違った言い方で説明している人がいます。それがダックワースが性格について話すとき、たびたび出てくるウィリアムズ・ジェームスです。彼はアメリカの哲学者で、心理学者でもあります。そして、ジェームスは「我々が美徳と呼ぶ特質は単なる習慣で、それ以上でもそれ以下でもない」と書いています。このことを受けて、ダックワークはKIPPの教員に「習慣と性格とは本質的には同じもの」と言っています。そして、こう続けています。「よい子どもと悪い子どもがいるわけではなく、良い習慣を持った子どもと悪い習慣を持った子どもがいるのです。そんなふうにいえば子どもたちも理解できるはず。なぜなら習慣を変えるのは大変かもしれないけど、不可能ではないと子どもたちにもわかっているからです。私たちの神経系は1枚の紙のようなものである。とウィリアム・ジェームズは言っています。繰り返し折れば、折り目がつく。KIPPでみなさんがしているのもそういうことだと思います。生徒たちがKIPPを出ていくとき、後の成功につながるような折り目が彼らについていることを確認して下さい」

 

ダックワースによれば、良心的な人々も道徳にかなった行動をしようとつねに意識して決めているわけではないというのです。「よい」ことをする(社会的に受け入れられやすい選択肢、あるいは長い目に見て利益につながる選択肢を選ぶ)のはそれが習慣として身についているからだといっており、最も良心にかなった道がつねに最も賢明な選択では限らないのです。

 

たとえば、以前紹介した読替えスピード・テストで高得点をあげた生徒は何の見返りもないのに実に退屈な作業を懸命に行いました。これは「誠実」ともとれれば「馬鹿正直」にも見えます。しかし、長い目で見れば良心的な行いが身についていれば役に立つことが多いのです。それは本当に問題になるとき、たとえば、期末試験のために勉強をしなければいけない時や会社の面接に行くのに時間を守らなければいけないとき、誘惑に負けて浮気しそうになった時などに、こういった経験は奮闘したり疲労困憊したりせずに正しい選択ができるようになるのです。MCIIのような戦略や、マシュマロの額縁があると想像する行動は、結局のところ、よりよい道を取りやすくためのコツなのです。

 

こういった思考の変換や見方をかえることは大人になったときに大いに役に立つことでしょう。ルールを作ることや習慣として身につけること、このどちらも見通しをもつことと同じ意味を持ちます。そして、そのスパンを遠くしていくという行為は保育をしている中で子どもの様子を見ていても感じるところです。こういった行為は確かに意志でとめるというよりも条件を自分で作るということであり、本来意志力でとめれるのであれば必要の無い行為なのかもしれません。しかし、これらの行為は意志力を強化するために必要なプロセスであるように思います。様々な方法を駆使して人は自分の自制心や見通しを持つことができるようになってくるのですね。