性格教育

「性格」と言っても、時代背景や環境によって「良い性格」や「求められる性格」は変わってきます。しかし、「性格の強み」に話を持ってくるとその時代の道徳観や宗教上の規則や権威などは限定的になるのではないかとセリグマンとピーターソンは考えました。そして、様々な時代やどんな社会でも評価される24の性格の強みを整理していきます。その強みを育てることは特定の倫理体系に関わりなく現実的に利益を生むと考えたのです。そして、それは幸福であると同時に有意義で充実した人生へと通じる確かな道の一つになると彼らは考えました。

 

では、この「性格」についてはどう考えたらいいのでしょうか。多くの人は「性格」という言葉を生まれつきのもの、変わらないもの、人の本質を決める核となる性質という意味で使います。しかし、セリグマンとピーターソンはこれらの定義とは異なるものとして考えられています。二人は「性格」が変わることはおおいにある。適応できる力を備えた、強みや能力の組み合わせであると定義したのです。そして、性格とは習得でき、実際に使える、そして何より人に教えることができるスキルであると言っています。

 

しかし、実際のところ教員がそれを教えようとするとたいてい道徳の壁にぶつかると言います。1990年代にアメリカでは性格教育の大きな波が来ました。「アメリカのすべての学校が性格教育を行い、正しい価値観と正しい市民感覚を求める」ということが掲げられ性格教育プログラムがはじまりました。しかし、現在でも何百もの公立学校が性格教育のプログラムは実施されているが、多くは漠然とした表面的なもので、厳密な観察の結果、ほとんど効果がないと分かったそうです。教育省の付属機関である国立教育研究センタ―が2010年に実施した性格教育プログラムの全国評価では、小学校で普及率の高い7つのプログラムが3年にわたり調査され、その結果、児童の行動に関しても、成績に関しても、校風に関しても、プログラムの効果は全く見られなかったのです。

 

これに対し、セリグマンの語るアプローチは道徳を振りかざすのではなく個人の成長や達成に焦点を合わせているところでした。レヴィンとランドルフもこういった視点に興味を惹かれたのです。しかしKIPPは擁護者からも批判者からも道徳主義的であると思われています。このことはジャーナリストのディビット・ホイットマンが2008年の著書「小さなことへのこだわり」でKIPPアカデミーの同種のチャータースクールが採用している方式を「新しい家父長制」と呼んでおり、こうした学校は生徒たちに「物事を考える方法だけでなく、従来の中流階級の価値観に従って行動する方法も教える」と言っています。これに対し、レヴィンはKIPPのねらいが生徒に中流の価値観を教え込むことであるというは心外だと言っています。「”性格の強み“式アプローチは、価値判断が全く入らないところが美点だと思います」とレヴィンは言います。「“価値観・倫理観”式のアプローチでは“それは誰の価値観なのか?”“誰の倫理観なのか?”という問題に行きつくことが避けられない」となるからです。

 

これらを整理すると性格と道徳のつながりが見えてきますね。価値基準の主体を「自分」とするのか、「その文化や社会」とするのか。前者がセリグマンの言う「性格の強み」であり、後者を「道徳」というように見えてきます。現在、日本でも道徳の教育が教科化することが決まり、今後ますますこの議論がされていくのではないかと考えられます。そして、アメリカの例でもあるように漠然とした表面的なものではあまり成果が見られなかったことが日本でも起きるのではないかと思うのです。教科化されることで、その価値基準が子どもの主体から離れかねないからです。そのため、目を向けるのは教科やプログラムではなく、子ども自身がどういったところでこういった性格の強みをつけていくようになるのかを見ていかなければいけなくなるのです。