「期待」の落とし穴

「はなす」という技術は決して「話をする」という意味だけではなく、部下に対して「任せる」という意味での「放す」や「離す」ということを前回紹介しました。できるリーダーほど、「はなす技術」というのが上手であり、それによって相手が主体的で自主的な動きをするようになるというのです。

 

他にも、メンタルヘルス不調者やハラスメント被害者を出さない上司、リーダーシップのある上司は、3つの「はなす」のほかに、もう一つの「はなす」ができていると紹介しています。その4つめの「はなす」は「花をもたせるという意味での華す」です。これは相手に任せて成功体験を積んでもらうことが、部下の成長につながるという意味です。しかし、これは「放す」と「離す」ができて初めて「華す」ということが可能になるのです。リーダーシップのある上司、ハラスメント被害者やメンタルヘルス不調者をださない部署のコミュニケーションが上手な上司というのは、部下に仕事をただ任せるだけではなく、小さいながらも成功体験を積ませるということを繰り返し経験させています。このように「はなす技術」がある人たちは共通して「はなす」ことによって「期待を示す」ことと「任せる」こと、すなわち主体性を持たせることができると分かっているのでしょう。このことから見えてくるのは「はなす技術」は「期待を示す×任せる(主体性を持たせる)」と定義できると武神氏は言っています。

 

この「期待を示す」ということはどういったことなのでしょうか。武神氏は「期待を示す」と「期待をすること」とは違うと言っています。武神氏は面談の中でメンタルヘルス不調で休職になった人の上司と話をすると「〇〇さんには期待してたんだけどなぁ」と言われることがあるそうです。これは本心かもしれませんが、もしかしたらその上司は「休職者を放っておいたわけではない」と主張したくて、そう言っているかもしれません。では、「はなす技術」を持っている人はどうなのでしょうか。

 

「はなす技術」を持っている人は、相手に期待するのではなく、期待を“示す”というのです。「期待する」というのは単に自分(上司)が期待するという行為なのです。そして、その期待に応えるか否かという責任は相手に委ねられます。しかし、よく考えると自分が期待しているからといって「相手がやらなければならない」という道理はなにもありません。本来、「期待する」というのは自分の勝手な行為であり、何かあったときの責任は自分にあります。しかし、いつのまにかその責任まで相手の責任になってしまうのが「期待する」という行為なのです。期待をするというのは、自分の行為に見えますが、実は最終的には「他責」の行為なのです。

 

このことはよく考えておかなければいけません。特に人事などを司る役職にある場合はなおのことこのことを意識しておかなければいけないと常々感じます。では、「期待する」というのではなく、「期待を示す」というのはどういったことをいうのでしょうか。