子ども集団

赤ちゃんは他者の存在を機能によって使いこなしていると言われているそうです。遊ぼうとするときは同じくらいの発達の子どもを選び、模倣しようとするときには少し上の子どもを選びます。そして、教わろうとするときはもう少し上の子どもを選んでいると言われています。気が合うかどうかというよりもといった個人差によって相手を選ぶこともありますが、年齢差で選ぶことも多いようです。これは実際の赤ちゃんの様子を見ているとよくわかりますね。周りの人を見て、使い分けているように見えます。そして、この年齢差のある子ども同士は、家庭内でのきょうだいか、地域の子ども社会の中に存在していましたが、それも今はなくなってしまいました。したがって、今は、さまざまな年齢の子とも遊ぶ機会を意図してつくっていかなければなりません。その一つがきょうだいの役割についてです。

 

子どもは生まれながら、いろんなことができるように備わっていますが、発言には環境が大きく関わっています。その環境の影響はさまざまですが、特にきょうだい関係が「心の理論」にどう影響するのかを調べる研究がされています。それはつまり、異年齢児の存在がどのように子どもたちに作用するかということでもあるといいます。これについて藤森氏は「ロバート・フルガムの「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という本を紹介しています。それによるとフルガムは「自分が人格形成をしていく過程で、幼稚園の時の仲間との葛藤、喧嘩をしたりとか、あるいは場合によっては助け合ったりとか、あるいは自分が約束を守らないと非常に痛い目に遭うというようなことから、多くのことを学んだ」といっています。つまり、人生で必要な知恵は、高等教育で学んだのではなく、幼稚園の砂場にあると言ったのは、砂場が重要な意味であるのではなく、異年齢の子ども集団に意味があるということであると藤森氏は言います。

 

赤ちゃんにおいては、学ぶ対象や教えてもらう対象としての他児であり、幼児期においてはお互いが影響し合う関係性であったりと、子どもたちにおいてはやはり他者からうける影響が学びや知恵につながるということがわかります。実際の保育においても、異年齢に変えたことで子どもたちの様子は大きく変わってきました。まず、大きく変わったのが「少し手のかかる子」でそれまで年齢別に保育をしていた時は注意されることが多かったのですが、自分より年の下の子どもが同じ空間にいることで、一緒に遊ぶことが多くなりました。それは年齢という区分ではなく、発達という区分で見ているとその子は少し下の発達の子どものほうがあったのでしょう。落ち着くのもその様子を見ていると当然です。そこには発達にあった子ども同士の集団があるからです。また、乳児から入ってきている子どもたちと幼児から入園してくる子どもたちの様子も少し違うということが見えてきます。やはり、乳児からこども集団があり、関わりを中心とした保育の中にいると「会話力」の違いも見えてきますし、異年齢の子ども集団の中にも刷り込みなく入っていくという様子が見えてきました。

 

年齢別と異年齢での保育集団の違いというのを比べるとその子どもの様子は少し違ってくるというのは、やはり今少子化であり、地域や家庭に子ども集団がないからこそ、こういった違いが見えてくるのでしょうね。もし、地域や家庭に異年齢の集団があるとこういった違いはなく、あまり変わったことに違和感はないのかもしれません。こういった一つ一つの子どもの様子を見ていても、これまでとは違う社会の形になっているということを感じます。そして、今本当に必要な保育の形態がどういったものかを考える必要があるということを感じます。