実践者

松陰は「実践を第一とし、知ることは手段であって目的ではない」と考えていたようです。そして、「実践に結びつかない学問や読書には何の価値も置かなかった」というのです。この姿勢は我々も心掛けていかなければいけないものです。保育の中でも様々な研修が行われています。しかし、その研修をただの知識を得ることであるのであればその知識はあまり意味のあるものではなくなってしまいます。それらの知識の中からどういった実践を導けるのか、必要な知識なのかを考えていくためには実践を伴った姿勢で聞くことが重要になってきます。実践を伴った姿勢、つまり「こういった場合、自園ではどう考えられるだろう」と考えることがなければ学ぶ意味がないのです。松陰は「誰かが考えたり、言ったことを鵜呑みにすることや自分の意見として主張することを戒めた」と言います。「鵜呑み」というのはそこに「自分の考えはない」とも言えます。松陰はそういった「自分の意見」がないことをいさめたのだろうと思います。あくまで、個々人が「自分で考える」ということに価値を置いたのです。

「物事を知る」というのは単に知ればいいというものではありません。その知った知識をどうこれからの実践につなげていくのかということがとても重要です。松陰は「何もしないで失敗がないよりは、何かをして失敗を誤ったほうがよい」とあくまで実践を求めました。その根底には「知は行の本、行は知の実、二つのものは離れることはできない」と、その実践の重要性を説いたのです。「知(知識)」と「行(行為・じっせん)」は結びついているものであって、切り離されているものではないと考えているのです。そんな実践に重きを落ちていた松陰ですが、その一方で、「知識の裏付けなしには、志が正しいものにはならない」と知識の重要性も十分に理解していました。

この考え方は『「知識」は「行(実践)」の一部であって分けることはできない』といった「知行合一」の考えで、こういった考えは保育や教育の世界においても非常に大切な姿勢です。こういった知識と実践の結びつきを理解しているかどうかで研修の意味が大きく変わってきます。あくまでも知識を得ることは実践における「学ぶ意味」を知る重要性があるのです。そして、このことを体現していたのがなによりも吉田松陰本人であったのです。

常々、私は職員を研修に出すにあたって、自分自身がしっかりと理解しているように心がけています。帰ってきた職員とできれば議論が出来ればと思うのですが、そういった責任が管理者にも必要でもあるように思います。そして、知らなくても積極的に理解しようと貪欲でいるべきであろうと思っています。そのためのアンテナは張っているべきなのだろうと思います。ただ、松陰の言うように、理論ばかりが先行していても実践がついていきません。必要な実践のために知識を入れる必要があるのだということを考えると、それぞれが今の現場における「分からない」を理解していなければいけませんし、課題意識を持っていなければいけません。そのためには、いかにそこに所属するそれぞれが自分事として当事者意識を持っていなければいけないのだと思います。

松陰の場合はこれらのことにおいて、非常に貪欲的でした。そして、実践者であるがゆえに、実践からの疑問の解決にとても比重を高く置いていたように思います。世界への密出国にしても、日本の知識人のもとを伺っていたのも、すべては自分の中の疑問であったり、課題を解決することにどん欲であったのだと思います。そういった意味で吉田松陰は非常に知識欲に貪欲で、探求心であったり、興味関心が高く、かつそれを実現化する実践者でもあったのですね。