志を持つ

松陰は常々「志に根差さない知識は人をあやまる」や「勇気のともなわない知識は曇る」と弟子に行っていたそうです。変革者に求められる第一条件は“志”であり、「志なくして始めた学問は進むほど、その弊は大きい。真理を軽んずばかりか、無識のものを惑わせるし、大事にのぞんでは進退をあやまり、節操を欠き、権力と利欲の前に屈する」と考えていました。このことに関して、私も同感です。「知識を得る」ということに対して、知識を生かすためには「何のために」するのかを考えなければいけませんし、そのためには大局を見るための志が必要になるのだと思います。

 

そして、この志を支えるために松陰は、気力、気迫が大切であり、優れた人物に会って話を聞くこと、様々な名著に親しみ、偉人の伝記を読むことで、絶えず心を引き締めるように心掛けなければいけないというのです。そして、この気迫をみせるためには「平時は用事のほかは一言も言わず。一言するときは温和な婦人のように静かに語る。これは気迫をつくるもとである。言葉や行動を慎み、低い声で語るぐらいでなくては、いざというときに大気迫はでてくるものではない」と説いています。

 

こういった志と気力を重視した松陰の教育は集団の啓発つながります。集団の中で鍛えられ、高められてきます。志が共有された集団であれば、そこには大義に向けて力を合わせ、共に育っていく集団ができると松陰は考えていたのです。そのため、松陰は「集団を規律あらしめるのは、“管理・統制”ではなく、“相互の厳しい切磋琢磨”である。この集団啓発さえあれば、若者はその力を伸ばしていける」と考えていました。誰かから統制された他律で行われる集団ではなく、相互に関係しあい、切磋琢磨していくなかでお互いに高め合うことで規律は生まれ、誰かが決めた規律ではなく、自分たちにとって意味のある規律になっていくのだというのです。今現在、様々なところで様々なルール作りが行われています。ドローンや少年法、コンプライアンスなどが厳しくなっていますが、世の中の人を見ていると「ルールがないことが問題」とルールがないことばかりに気が向いているように思います。本来あるべきルールは「お互いが気持ちよく生きるため」にあるべきものであり、「思いやる」ということをベースにしなければいけません。「ルールを知っているかいないか」や「ルールがあるかないか」というものではそもそもないのだと思います。このように考えると今の社会は国民それぞれが当事者意識をもって社会を担っているとはいいがたく、政治のせいであったり、自治体のせい、上司のせい、部下のせいなどと誰かのせいにしてばかりの社会なのかもしれません。もしこれが、松陰の言うように「志」というものを今の時代の人が無いというのであれば、それは教育や保育のせいなのかもしれません。。

 

「志」というはある意味で「夢を持つ」ということや「目標を持つ」ということでもあります。今の時代こういったことを持ちづらい時代なのかもしれません。それでは生き方において楽観的にもならないでしょうし、ポジティブな雰囲気にもならないのでしょう。そういった集団が多くなるようなときに、吉田松陰の集団作りというのは今の時代だからこそ学ぶ必要があるように思います。