自ら学ぶ

吉田松陰の学問への探求はそれを学ぶ生徒においても感銘を受けるものであったと言います。そして、その姿勢には非常に考えさせられるものが多くあります。松陰は「学問は何のためにあるものだ」ということに対して説明はしません。しかし、「あなたは何のために学ぶのか」という問いはあります。志においても「人間の志はかくあるべきだ」とはいわずに「あなたの志は何か」と尋ねるのです。あくまで自分で考えさせるようなスタンスで塾生に関わります。そして、実際の学習の場を通じて、自分流の勉強の方法を発見させ、それに忠言を与え、励まし、叱り、努力の継続を求めたのです。この姿勢は管理者にとても求められる資質であるように思います。勉強方法は自分に合ったものは自分で見つけるしかないのです。そして、その根底には「なぜ学ぶのか」という動機はとても重要になります。よく外発的動議付けと内発的動機づけという言葉が心理学の世界で出てきますが、内発的動議付けは「自分でやろうと思う」と言います。では、そういった意思を持つためにはどうあるべきなのかというと、その「学ぶこと」に対して自ら進んで行う自主性が求められるのです。そのために「学ぶ意味」を見出していなければいけないのです。確かに「何のためにあるのか」ということと「何のために学ぶのか」とを比べると前者は「与えられたもの」であり、後者は「自ら見出すもの」といった違いが見られます。このような意思を持たせることが非常に重要なのです。

 

松下村塾では「勉強は、教師が教えるのではなく、自分で自分自身を発見し、自分に立ち向かい、自分を自力で高めていく能力を身につけさせるところにこそあった」と言えるのです。そのため、個性に着目し、各人に応じた学習方法を習得させ、弟子の能力と資質を最大限に引き出そうとしたのです。

 

また、松陰は読書をするにあたり、「本の感じるところがあれば抄録(しょうろく)しておけ」と言っていたそうです。抄録とは「かき写す。抜き書き。」のことであり、よく学会での抄録では「研究論文を端的にまとめたもの」のことを指しています。つまり、抄録を通して、読んだ本をもう一度頭の中で整理し、まとめ直す作業を通じて、受け身の読者の立場から、能動的な執筆者の立場に転じて、本の内容をより深く理解できるようにしたのです。そして、これは松陰自身の体験によって感じた読書法なのです。

 

まさにこれは今私がこのブログで行っていることで、このブログの意味というのはここで松陰が抄録の大切さのことを指していることと同義であると言えます。ここのブログを通すことで理解しますし、ただ、これまでは「執筆者」としての意識は低かったように思います。自分の意見を書くというはなかなかに勇気のいることです。しかし、こういった意識を持ち書くことができるようになったのは論文執筆をとおしたことにつながっているように思います。様々なところで学んだことが生かされるのはとてもやる気を出してくれます。