共に考える

「良い集団」をつくるにはどうしたらいいのでしょうか。以前、山口県に旅行に行った時に、吉田松陰の記念館に行くことが出来ました。吉田松陰と言えば、明治維新における歴史上の人物をたくさん排出した松下村塾の塾頭でもあります。その吉田松陰はどのようにしてそういった数々の英傑を育てることになったのでしょうか。その一つに吉田松陰の考え方に「主体性」というものが大きな意味を持っていたことが伺えます。松陰は「集団における切磋琢磨、つまり相互啓発によって集団のレベルが高まる」ということを中心にしてきたことがいえる。そして、集団を活性化させることを大切にしていたようです。では、その方法はどういったところにあるのでしょうか。松陰は「人間は、個人の素養もさることながら、自分を取り巻く集団からの影響に大きく左右される」ということをかんがえ、集団啓発をベースとした能力開発をしました。そうすることで、松陰が死んだ後でも塾生は自力で育つような教育システムを生み出したのです。

 

その教育システムの特徴の一つが「一緒に学ぶ」という姿勢です。松陰は弟子入りの希望者が来るとこのように答えるそうです。「私は教えることが出来ませんが、一緒に学ぶことができます。ともに励みましょう」。それと共に時として「あなたは何を私に教えることが出来ますか?」と質問することもあったようです。この視点ですが、保育の中でもこのようなことは多々あります。今の時代、大人は子どもたちに対して「教える存在」と認識している人は多いのではないでしょうか。これは厚労省から出された「海外の研究」で「優れているプリスクールの特徴」でイギリスの調査では「②「ともに考え、深め続けること(Sustained Shared Thinking)」と呼ばれるかかわりを含む、保育者と子どもたちの質の良いかかわり。」とあり、その注釈に「※『ともに考え、深め続けること(SST)』とは、「二人もしくは二人以上が、知的な方法で“一緒に”取り組み、問題を解決し、ある概念について明らかにし、自分たちの活動を捉え直し、語りを広げたりすること。どの参加者も、ともに思考することに貢献し、思考を発展させたり広げたりすることが求められる。」と定義されています。優れた質の高い関わりというのは「教えること」ではなく「共に考える」ことにあるのです。

 

この共に考えるということは子どもの主体性に大きな意味があるのではないかと私は考えています。なぜなら、「答えを教えてもらう」ということはそこに答えに向かうためのプロセスはありません。しかし、「共に考える」ということにおいては、そこに調べ方や見るものといった「知る」ためのプロセスが加わります。単に大人から答えを伝えるよりもより

多くの過程を通らなければいけないのです。大切なのは「答えを知る」ことではなく、「答えを導く方法」を知ることが重要なのです。こういった過程を踏むことで興味関心は深まるかもしれませんし、違う事柄に対して調べ方が活用されることでより知ることにどん欲になるかもしれないのです。いかに自主的に調べることが出来る環境を作ることにつながるかというと答えを伝えることが全てではないのです。

 

このことはとても重要な視点ですね。そして、このことは保育だけではなく、マネジメントやコーチングにおいても共通した部分でもあります。できるだけ自分で考える機会を大切にすることで思考方法や考える視点を伝えていくことが出来るのです。吉田松陰の場合は人の意見や考え方にも興味があったのかもしれません。常に自分が学ぶことが優先されており、ある意味で独善的な印象にも見えますが、だからこそ、門下生自体が自律し、そこで学んだ環境に対しての畏敬の念というものが強くあり、そこで学ぶ誇りや喜びにもつながっていたのかもしれません。自分自身もこのことは実践し、意識していきたいところであります。