6月2021

悪循環の連鎖と克服

子どもの遺伝的リスクと環境リスクは往々にして同時に子どもに降りかかるとゴプニックは言います。なぜならそれは、遺伝子ばかりでなく、環境も親から受け継ぐからであるからです。経済的に貧しい家庭に生まれた子どもは、経済的に貧しい子どもになってしまうのです。しかし、時に赤ちゃんの存在そのものが、親の抱える問題をいい方向に転換させてくれることもあります。赤ちゃんは密接な親子関係、喜び、そして、生きる意味を与えてくれるのです。優しく愛に満ち溢れた赤ちゃんに救われた貧しいシングルマザーはたくさんいたことでしょう。しかし、母親が抑うつ的なので赤ちゃんも憂うつ、赤ちゃんが憂うつであると母親ももっと悲観的になるというように悪循環に陥り、環境リスクと遺伝的リスクが増幅し合ってしまうことも少なくありません。

 

このように赤ちゃんと母親の相互作用のように発達過程で、良い循環や悪い循環が生まれるのも、私たち人間に、学習と介入の能力があるからです。赤ちゃんは親のすることを見て世界を学習し、そこから得た知識を使って周囲に働きかけます。そのため、悲しげな母親を見て、赤ちゃんが悲しいものなのだと学び、自分もそのように振る舞い、それを見た母親はより悲しくなってしまうようになるのです。このような悪循環が起こる環境が出来上がってしまうのです。このことからみても、学習と働きかけの能力があるがゆえに、もともとの遺伝的要因が増幅されてしまうことになってしまうのです。

 

しかし、このような悪循環はルーマニアの孤児の事例を見ていくと、打ち破ることができるとゴプニックは言います。人間の運命は、遺伝子と幼児期の体験だけで決定されるわけではありません。学習と働きかけの能力を、プラスの方向に転じればいいというのです。

 

たとえば、アメリカで行われた実験で、経済的に貧しい子どもたちへの早期教育事業として、ペリー就学前教育やカロライナ・アベセダリアン・プロジェクトがあります。そのいずれも、幼稚園に幼児を通わせ、献身的な大人の保育係や多様な環境があり、その子での保育を行います。そして、同じ地域でこうした幼稚園に通った子どもと通わなかった子どものその後を追跡調査し、科学的に比較すると、はっきりとした違いが見られたのです。プログラムに参加した子どもたちは、20、30年経ったとき、そうではない子どもたちより、経済的に豊かで、教育程度が高く、健康で、刑務所の入所率が低かったのです。そのため、この種のプログラムに投資することの経済効果は株式投資を上回ることが分かったのです。

 

一見、この結果を聞いたときにどう思うでしょうか。この結果だけを見ると、やはり乳幼児期の子どもの体験や経験が大切であるということが見えてきます。しかし、見方を変えると、この影響は子どもの環境だけではなく、子どもを取り囲む社会的環境、特に親にもいい影響が出ているのではないかとゴプニックは言います。

子どもの気質と親

保育士をしていると自分が保育をしている側にも関わらず、子どもたちからも影響を受けていることを感じます。それは親にとっても同じことで、自分が親になることで「親として、子どもに育てられている」ことは多くあります。人は子どもがいることで親になりますが、それと同時に「親としても育てられるのです」。ゴプニックは「子どもは親からの影響を受けるばかりではなく、自分の方からも親に影響を与えることが分かってきた」と言っています。そのため、子どもの行動の違いは、親の行動にも違いをもたらすと言います。

 

子どもが二人以上いる親は、きょうだい間であつかいにかなりの差が出ることがあるそうです。児童虐待においても、このことが言えるそうで、きょうだいのうち誰か一人に虐待が集中します。特に病弱な子や神経質な子は虐待を受けやすいそうです。虐待のような極端な例には及ばなくても、子どもによって親の接し方に差は出ることはよくあります。

 

たとえば、要求が多く気難しい子どもとの親の関わり方と、おっとりして手のかからないその子のきょうだいの母親とは同じ人物でも違う人物ように感じるかもしれません。性質の違う子どもに同じように接するのは無理というものですし、仮に同じ接し方をしたとしても、それがもつ意味は子どもによってまるで違ってしまいます。たとえば、バウンサーに入れて遊ぶことを子どもに進めたとしても、活発な子どもと臆病で気の小さいでは、反応は大きく違います。

 

このように子どもの生まれつきの性質と環境の相互作用については、色々な研究があります。心理学者は養子やふたごの研究から、「反社会的行動」「神経症的傾向」「薬物依存傾向」などなど、様々な形成と環境の関係を研究してきました。みじめな親のもとに生まれても、その後、健全な養親に育てられた子どもは、みじめな大人になるリスクがわずかに高いだけになります。逆に健全な親のもとに生まれ、みじめな養親に育てられた子どものリスクも同じ程度です。ところが、みじめな親から生まれ、みじめな養親に育てられると、両方のリスクを足したより遥かに大きなリスクを背負ってしまいます。遺伝的リスクと環境リスクは単純に足されるのではなく、掛け合わされるのです。さらに不運なのは、遺伝的リスクと環境リスクは往々にして同時に降りかかります。なぜならば、たいていの子どもは遺伝子ばかりでなく、環境も親から受け継いでしまうからです。

 

遺伝的素養というのは変えることができませんが、環境要因というものは変えることができます。逆にいえば、大人ができることというと子どもに合った環境を作ることが一番重要なことであるのかもしれません。以前にもゴプニックの遺伝と環境にあったように時として、遺伝子要因を環境要因によって変えることができるのです。このことについて、ゴプニックはどのように考えているのでしょうか。

バランス

ゴプニックは学校教育を受けることで、人が生まれ持った能力と教育との相乗効果で、賢い人はより賢くなることになったと言っています。しかし、ものは良いことだけではないようです。この100年がかりの実験は、学校教育のもつマイナス面も明らかにしたかもしれないと言います。それはどういったことかというと、近年、注意欠陥障害が子どもの間に急増しているのはこの学校教育の裏側と言えるだろうというのです。

 

これまで注意を持続することの得手不得手は、昔から人の特徴としてはあっただろうと言われます。しかし、それは人類の長い歴史を通じて、とりたてて問題にはされていませんでした。なぜなら、狩猟生活や農耕生活においては、現代の学校生活で求められるような持続的注意力はそれほど必要ではなく、その能力がなくても大きな不利にはならなかったからです。

 

しかし、現代の教室という環境では、注意力の有無が学業に大きく影響してきます。そのうえ、もともと注意力の高い子は、学習によってさらに集中力をつけるため、遺伝的要因の影響が増幅されていくのです。このことにより、注意力のないことが問題視されるようになってきました。ひいては、このことがついに一種の病気として取り扱われることになったのです。

 

人間の環境創出能力はPKUのようにプラスに転じることもあれば、注意欠陥障害のようにかえって、遺伝的リスクを増幅させてしまう場合もあるのです。そして、これが特に起きやすいのが社会的な環境が大きく関わるケースです。人間の社会への働きかけは、物理的世界に働きかけるよりもずっと効果が良いです。しかし、裏を返せばそれは社会的環境が自分たちにとっては強い影響を与えるということも同時に言えるのです。

 

このことについてゴプニックは「死別や離婚、喪失、屈辱」といったストレスの強い出来事は、人を抑うつ的になりやすいそうです。このような状況で悲しみや落ち込むのは普通にあることですが、抑うつの遺伝リスクが高い人は、これらのストレスへの体制が特に弱いため、立ち直ることができず、抑うつがどんどん進むこともあるのです。また、こういった遺伝リスクを持っている人は、人よりもストレスを感じることが多いため、より社会的環境に影響を受けやすくなります。そのため、悲観的な人の取る行動は、快活で立ち直りの早い人よりも拒絶や屈辱に会いやすいのです。そして、このことが悪循環を生み、相手の出方によって、怒りがより深くなったり、悲しみがよく深くなってしまいます。

 

遺伝的リスクによって、かえって自分自身がその環境を呼び込んでしまう可能性もあるのです。遺伝的要因と環境要因は非常に微妙なバランスを取りながら人に影響を与えているのです。

遺伝的要因と環境要因と学校

バージニア大学のエリック・タークハイマ―は、経済的にごく貧しい家庭で育った双子のデーターベースに注目しました。そして、遺伝的要因と環境要因との関係性が見えてきたのです。それ以前の双子研究は、すべて中流階級の子どもが対象だったのですが、中流階級層の双子とごく貧しい双子の両者を調べると、経済的に貧しい子どもより、豊かな家庭子どもの方が、IQの遺伝率がずっと高いことが分かりました。そして、貧しい子どもの場合、IQのスコアには遺伝的要因がほとんど影響していなかったのも分かったのです。一方で、親子のスコアの相関はほとんどなく、一卵性双生児と二卵性双生児のIQスコアの差についても同じでした。貧しい家庭の子どものIQが、豊かな家庭の子のように遺伝的要因の影響を受けないのは、どうしてでしょう。

 

それは、貧しい家庭の子どもの場合、わずかな環境の違い(たとえば、学校の教育レベル)でIQに大きな差がつくため、環境要因による違いが遺伝的要因による違いを覆い隠してしまうからだと言います。これに対し、経済的に豊かな家庭の子どもは揃ってレベルの高い学校に入るので、環境要因による差が現われにくく、逆に遺伝的要因による差の方が強く表に出るのです。

 

チャールズ・マリーとリチャード・ハーンシュタインが執筆し、論議を呼んだ「ベルカーブ」(心理学者と政治学者の共著。1994年)では、IQに遺伝があるなら、ヘッド・スタート(連邦政府による低所得家庭への育児支援事業)のような低所得層向けの早期教育プログラムは無益ではないかと述べられています。しかし、その後の研究では正反対の結論が示しています。困窮家庭の子どもの環境を変えることは、IQスコアの上昇に絶大な効果をもつことが分かったのです。

 

歴史的にも、環境の変化には遺伝的要因を上回る効果があることが分かります。というのも、我々人間のIQの絶対値は20世紀を通じて飛躍的に上昇しました。それは私たちの遺伝子が変わったという事を意味しているわけではありません。これはもはや百年をかけた壮大な遺伝―環境実験を受けてきたようなものだとゴプニックは言っています。つまり、環境が変わったことで、遺伝子要因以上に環境要因を受けたことで、より発達した脳を獲得することになったのです。これは学校というものにもつながっていきます。

 

かつては学校に行く人はわずかしかいませんでした。ところが新しい環境に脳を置いてみると驚くほど好成績をあげることが分かったのです。すると、みんなが学校に通うようになります。すると、生まれもった能力と教育との相乗効果で、これまでよりもより成績の良い賢い人が多くなり、さらに学業を積むことによって、さらに賢くなることにつながったのです。しかし、この学校教育にはこういった利点と共に表裏一体である、問題も生まれることになるのです。

遺伝要因と環境要因

ゴプニックは遺伝率が形質を作ることに大きな影響を与えると紹介しました。しかし、だからと言って環境要因がほとんど関係ないということではないとも言っています。そして、遺伝率とはしょせん、一定の環境内で示される傾向を数値化したものにすぎないというのです。それはどういったことなのか。

 

それは人間の特性にあります。人間は自分の環境、特に社会環境を自ら作り出せる動物で、そうして作り出された環境は、たいていもとの環境とは違ったものになります。なぜなら、これまでに紹介したように、人間は反実仮想と因果的な介入を行う能力(これも遺伝するもの)によって、自分の環境を変えることができるからです。そのため、これまでと違った環境の下では、同じ遺伝子でもまるで違った作用を発現することになります。こういったことが遺伝的要因と環境的要因を明確に区分するということは、そもそも原理的に難しい理由でもあるのです。確かに親子一世代違うだけでも、それぞれの年代での環境は大きく違います。そして、求められる形質も違ってくるでしょう。同じ遺伝子を持っていたからといって、環境要因によって形質の出現の仕方が違っていても当然であり、では、何が違うのか、どう区分されるのかというのは明確に分けることは難しいのです。

 

ゴプニックがあげる一例が、赤ちゃんのフェニルケトン尿症の検査です。この病気は稀に見られる先天性疾患で、PKUと略称されます。PKUの赤ちゃんは食品中のアミノ酸の一種を体の中で代謝できません。そのため、普通の食事を与えてしまうと重度の発達遅滞が起こります。ですが、特定物質を除いた食事を与えれば問題は起こりません。つまり、PKUによる発達遅滞は100%遺伝的要因によるものですが、見方を変えれば、100%環境要因によるものでもあります。発達遅滞をもたらす特定物質を摂らないですむ環境では確実に発症が防げますが、そうではない環境に生まれたば場合は防ぎようがないといったことが言えるのです。

 

このように人類はPKUと発達遅滞の因果関係を持ち前の認知能力によって解明しました。そのうえ、欠陥遺伝子を受け継いだ子どもの環境を変えるための介入も行いました。もし、人間がこうした能力のない動物であったら、PKUの発症は今も100%遺伝要因で決まっているでしょうとゴプニックは言います。

 

状況と環境によって、仮に遺伝的要因であったとしても、環境要因にすり替わってしまうということがあるのですね。それは時代によっても、社会や文化によっても大きく影響されているのだろうと思います。確かに太古の時代は攻撃的な人の方が獲物や狩りをすることには向いており、その時代であればヒーローであったかもしれません。しかし、今の時代にそれを出してしまうと、犯罪者になってしまう可能性もあります。形質や気質というのはそれを受ける受け皿を必要とします。遺伝的な要因と同時に環境や社会の在り方によって、形質の特性が生かされたり、そうではないこともあるということはよくよくその意味を考えなければいけないのだろうと思います。そのためには、それぞれがそれぞれの特性を受け入れ、それに向けた環境に身を寄せれる柔軟な社会、それぞれが生かされた社会構造をもつ必要があるのだろうと思います。