移り行く環境

アンドレアス氏は「21世紀の教育の背景には、絶滅寸前となった私たちの環境がある」と言っています。それはどういった部分のことかというと「人口の増加、資源の枯渇、気候変動」ということが挙げられており、そこから持続可能性と将来の世代のニーズについて考えていかなければいけないと言っています。それと同時に、テクノロジーとグローバリゼーションの相互作用は、新たな課題と新たな機会を生み出しているというです。

 

アンドレアス氏は「デジタル化は民主化の力である」と言っています。しかし、デジタル化は小さな声をどこでも聞こえるようにする一方で、個性と文化の独自性を消し去ることにも危惧しています。人々は利便性のために自由を引き渡し、コンピューターの助言や意思決定に依存すれば、デジタル化は人々から力を奪うこともできるのです。

 

このことは私も常々感じているところでもあります。TwitterなどSNSといったツールは正しく使えば、非常に便利な機能を備えています。しかし、その反面、最近のニュースではSNSに関わるものが少なくありません。結局のところ、SNSをうまく使うというよりは、SNSによる技術に人間が振り回されいるようにすら感じます。しかし、このことはSNSだけに限らず、技術の進歩はそれと同時に人間の豊かな心情や生活をどこかで犠牲にしているように思います。メールが出てきたときも、「相手の顔が見えないので感情を見えずらい」といったようなコミュニケーションにおける問題が言われていました。世の中では、24時間どこででも、飲み物や食べ物が変えるようになった半面、家庭で手料理が出ないことも出てきたり、食品添加物の発展による健康被害もささやかれたりしています。

 

新しい技術共に、新しい文化が出来上がっていくというのはどの時代も同じだという一方で、今の社会、コミュニケーション能力の低下というのは非常に危惧しなければいけない内容だと思います。なぜならば、それは人がこれまでの歴史の中で、最も強みとしてた能力であって、人が他の種とはっきりと違う高度なコミュニケーションがあるからこそ、さまざまな気候変動や環境に適応してきたことや、グレートジャーニーと呼ばれるほどの途方もない旅に出て、分布を広げることができたのだと思います。そのコミュニケーションができなくなっているというのは非常に危険なことであろうことは想像に難くないと思っています。

 

だからこそ、保育は子どもたちの家族以外の「他」と触れる初めての機会でもあります。この始まりこそ、大切にしなければいけない時代であると私は思っています。デジタル化になっていく環境には逃れることはできません。便利な世の中になっていくということも変えることはできません。だからこそ、そういった時代だからこそ、保育とはなにかということを問い続けることが必要な時代でもあるのだろうと思います。