6月2021

遺伝率

前回の内容では幼児期の体験は後の人生に必ずしも影響しないということが分かってきたことを紹介しました。では、人間の性質はほとんど遺伝子によって決まるということが言えるのかというと、そうでもないようです。人間が多様であるのは、遺伝子と経験が相互に影響し合うことで起きるとゴプニックは言います。

 

心理学では「遺伝率」という言葉をよく使うそうです。それは同じ環境で育った人間でも、賢さ、心の健全度、みじめさといった「形質」に違いが生まれます。この形質と遺伝子の違いに相関があるのかを数学的に調べたのが「遺伝率」です。ここが持っている形質の個人差は、遺伝の影響をどれくらい受けているのかというのです。

 

このことを調べるのに最適な方法が、「双子」を比べてみることです。一卵性双生児は同一の遺伝子を持ちます。それに比べ二卵性双生児の場合は遺伝子に違いがあります。しかし、どちらのタイプの双生児も育つ環境は共通しています。したがって、一卵性双生児では同じだけれど、二卵性双生児では差があるとしたら、その性質は「遺伝性がある」と考えられます。たとえば、一卵性双生児の一方がアルコール依存症になるとすれば、もう一方もアルコール依存症になる確率が高くなります。しかし、二卵性双生児では、もう一方もアルコール依存症になる確率は、無作為に選んだ他人より高くなるものの、一卵性双生児ほど高くありません。つまり、このことから見ると、遺伝性による可能性が見えてくるというのです。

 

「双子」の比較以外にも、養子になった子どもを研究する方法もあります。ある形質が、遺伝子を共有する実親と養親のどちらに似ているのかを調べるのです。この場合も実親がアルコール依存症の子どもは、遺伝的背景が異なる子どもよりアルコール依存症になる確率が高いことが分かっています。親の集団と子どもの集団を別々に調べる方法もあります。この方法でも、アルコール依存症の人は、他の問題と比べ、親もアルコール依存症である確率が高いことが分かりました。これらのことから、ある種のアルコール依存症には遺伝性があると結論されています。

 

このようにある形質の遺伝のしやすさを遺伝率として数値化する研究がされているのです。アルコール依存症の場合、標準的な白人、中流階級の集団では、遺伝率は40%でした。同様にこれをIQに置き換えて計算すると、遺伝率は40~70%と推定されています。

 

しかし、ゴプニックは一つ注意しなければいけないことがあると言います。それは「遺伝率が高いからといって環境要因がほとんど関係ないわけではない」ということです。逆に、遺伝率が低いからといって環境要因が決定的に大きいともいえないようです。人はこう考えると環境的要因と遺伝的要因の両方が相互に作用することで気質というものが決まってくるのでしょうか。遺伝率と環境要因とはどのような因果関係があるのでしょうか。

幼児期の体験を取り戻す

 

乳児期に子どもに与える影響というのはどれくらい影響するのしょうか。幼児期の出来事や親のすること(あるいはしないこと)で、子どもの後の人生に直接影響を及ぼすものには、どんなものがあるのでしょうか。このようにゴプニックは育児の中で疑問を持ちながら、自分の育児法をずっと問い続けてきたそうです。その結果、幼児体験が後の人生に直接影響するという単純な見方を裏付ける科学的証拠は、ほとんどないのだということが分かったそうです。

 

このことについて、有名な研究の一つに、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク政権独裁下の孤児院の事例があります。この事例は子どもの愛着研究において、必ずと言ってもいいほど取り上げられる事例です。当時、人口増加のため多産することを民衆に強制していた政権でしたが、民衆にとっては経済的な改善もなく、産んだものの育てられない子どもがものすごい人数に上り、捨てられる子どもたちも多くいました。こういった孤児院にいた子どもたちは、身体的虐待こそ受けませんでしたが、社会的・情緒的にすさまじい剥奪を受けたのです。孤児院では誰も遊んでくれず、抱いてくれず、話しかけてくれず、愛してもくれませんでした。赤ちゃんは数時間どころか何日も、何週間も、ベットに寝かせきりだったのです。

 

政権が崩壊し、孤児院の恐ろしい実態が明るみに出ると、当時、3歳・4歳だった子どもの多くはイギリスの中流家庭に引き取られていきました。その子たちの様子は同年代の他の子どもとはまるで違いました。体がとても小さく、ひどい発達遅滞があって、ほとんど口がきけない上に、突飛な社会行動も見られたのです。しかし、それでも6歳になると、遅れはおおかた取り戻されました。IQの平均スコアは同年代のより恵まれた子どもたちと比べ、わずかに低いだけとなったのです。普通の家庭で育った子どもが実の親を愛するように、この子どもたちも養い親を愛するようになったのです。こうしていく中で、孤児院出身の子どもたちは他の子どもと区別がつかなくなっていったというのです。しかし、その中でも一部の子どもたちは、受けた傷から完全に回復することができず認知的、社会的な遅れが完全に取り戻せていないようでした。孤児院にいた期間が長い子ほど問題が残りやすく、その程度が深くなる傾向が見えてきたのです。

 

このルーマニアの孤児院の子どもたちの様子は何を示しているのでしょうか。一つは過去の体験があっても、後の体験によって克服するというケースが見えてきます。しかし、一方で過去の体験から回復できず、後の人生に影響を及ぼすということも事実として見えてきます。

 

その他にも、一般的な状況で行った発達研究では、幼児期のリスクは後に取り戻されることが示されています。たとえば、子どもの時に虐待をされた人は、そうでない人より我が子を虐待する傾向があります。しかし、その一方で、そんなことをしない親になるほうが圧倒的に多数であるのも事実なのです。ゴプニックは幼児期に受けた傷というのは、何とか克服することができることを示しています。

 

では、いったい子どもたちが人生に影響を与えるのはどういったものなのでしょうか。ゴプニックはこのことについて「遺伝子」にも話を広げて考えを広げていきます。    

幼児期の自分の影響

次にゴプニックは「人間は一生変わらないものだろうか」と最古の哲学者であるギリシャのヘラクレイトスの言葉を挙げています。つまり、人格の同一性とは何か。時が経過しても人格は保たれるのか?それはどのようにしてか?ということを挙げて話を進めています。人の性格は一生同じなのでしょうか。それとも変わることができるのでしょうか。このことも割と話題に上がってくることが多い話題です。このことについて「わたし」を「わたし」たらしめているものは何であるのでしょうか。「わたし」は障害変わらない、といったとき、そこにはどんな意味が込められるのでしょうか。

 

では、子どもはまずどのように「わたし」や「ぼく」をいつごろから認識するようになるかというと。4歳・5歳頃になると、自分の過去と未来をつなぐ物語をつくれるようになると以前紹介しました。おでこにシールをつけた子どもの例で、おでこにシールがついた「ぼく」、ビデオを見ている今の「ぼく」、砂漠でサングラスが必要になる「ぼく」を同一のものとして理解できています。このように同一視ができるようになるのは、子どもが自伝の主人公である「わたし」を育てることで身につくと紹介していました。こういったことが理解できていくことで、「マシュマロ実験」の実行機能のような未来の自分のために、今の自分をあえて欲求不満にさせることができるようになることができるようになるのです。そして、成長とともに、マシュマロ実験のような直近の未来から、全人生における広がりを見せていきます。このように幼児期と成人期を結ぶ一つの物語があるかのように人生を生きることが人格の同一性の本質ではあるような気がするとゴプニックは言っています。かつての自分を知っているから、今の自分がなにものであるかが分かるというのです。

 

このことを踏まえて考えていくと、幼児期の体験は後の人生にどのように影響していくのでしょうか?という疑問がわきます。これは保育の中でも非常に大きなウェイトを持つ問題です。子どもたちにとって親の影響が後の将来にどのように影響するのか。子どもの幸せのために、自分は何をするべきなのかといった悩みは親のみならず、保育者や教育者は一度は必ず考えたことのある悩みではないでしょうか。だれもが子どものときの体験が今の自分を形づくっていると感じているのです。ゴプニックはフロイトの理論が科学的に否定されているにも関わらず、未だ根強い人気があることや、自己啓発本や子育ての本から暗い子ども時代の回想記までもがもてはやされているのはこういった考えの土壌があるからではないかと言っています。

 

しかし、その一方で、幼少期以外の後年の出来事が、幼児期の体験を上回る影響をもつということも知っています。幸せな結婚、恵まれた仕事、1人の良き友人といったこれまで出会った人との経験が人をみじめな過去から救ってくれるというのです。そのため、自分の力で人生を切り拓けば「幼児期決定論」にも打ち勝てると信じているということも言えます。つまり、「立ち直る」ということも幼児期の体験とは逆に信じられているのです。

 

この二通りの説においても、多少の裏付けはあるようです。しかし、科学的に詰めていくと、いずれも単純すぎることがわかるとゴプニックは言います。しかし、現実はもっと複雑だというのです。なぜなら、ヒトは自分の置かれた環境を変革する力を持っているからです。

 

しかし、幼児期の自分が後の大人になった自分の一部を占めているというのは紛れもない事実です。しかし、それは幼児期の体験が今の自分を決定しているとは言えないのではないかとゴプニックは言います。大人の自分の中に、幼児期の自分が含まれているにすぎないというのです。

大人と子どもの意識の違い

ダニエル・デネットなどの内省の矛盾による主張は、意識についての幅広い見解の一方の極論な考えであって、デネットにポール及びパトリシア・チャーチランドを加えた「アンチ意識派」がいます。逆にそれとは反対の立場としてのあるのが、ジョン・サール、デビッド・チャールマーズといった「プロ意識派」の哲学者たちです。

 

「アンチ」は意識体験が不安定で矛盾をはらむことを強調し、「プロ」は意識の主観的な確実性を強調しています。チャルマーズらによれば、意識と脳にズレが生じるのは、意識が非物質であるせいですが、だからといって意識が幻想だというのではないと言っています。チャーマーズは、心を神秘的な魂と同一視するわけではなく、ただ脳と意識は根本的に別種のものだと言っているのです。

 

子どもの意識に注目しても、意識を説明しきることはできませんが、どちらかというと、デネットの主張に歩がありそう気がするとゴプニックは言っています。子どもの意識は考えれば考えるほど複雑で矛盾を抱えています。子どもは本当に、大人と違う意識体験をして、それを私たちに正確に伝えているのでしょうか。自分の意識を間違って捉えているということはないのでしょうか。この箱にはキャンディが入っていると、ついさっき思ったことを、本当に覚えてないのでしょうか。過去の体験を取り違えているだけ、ということはないのでしょうか。内なる自己がないのに、なぜ意識を持てるのでしょうか。これは「わたしの」意識体験だという自覚のない意識に、どんな意味があるのでしょうか。もし子どもが過去の意識体験を取り違えているのだとしたら、大人にもそのような可能性はないのでしょうか。

 

わたしたちが当然のように思っていること、たとえば、私は数秒前に自分が何を考えていたか知っているとか、意識は一つの流れであるとか、自己は唯一のものであるといった想定が子どもを見ていると瓦解しまうとゴプニックは言います。意識が特定の性質をもつ統一的な現象でなくなってしまうのです。外部の世界に向けられる鮮明な意識と、内部の「わたし」を感じる感覚とは別物のようであり、その感覚は想像力や過去の出来事を想起する能力ともまた違うようなのです。もちろん乳幼児にも意識はありますが、これまでで紹介したように大人の意識とは非常に異なっているように見受けられます。

 

これまでの実験の内容を見ていた時に、子どもと大人との大きな違いは子どもは「今」というものが基本的にすべてであることに対して、大人は「未来や過去」も含めての意識という意味あいがあるように思います。目に見えるもの、感じるものすべてを取り入れようとする子どもと、効率よく、学び、必要なものを取り入れようとする大人というようにその時期に起きる学習というものが大きく違っているのだと思います。

 

ゴプニックは子どもの意識体験は、心の機能とギャップがあります。子どもはとても論理的で、データから正確な結論を導きますし、複雑な統計的分析や巧みな「実験」もしています。ところが、こんなに合理的な学習能力を持ちながら、意識のほうは大人から見ると非合理に映ることがあります。しかし、これは誤りだとゴプニックは言います。3歳児の心が大人にとって非合理なものだと感じられたからといって、子どもの心が実際にそうだと決めつけることはできないのです。そうではなく、子どもの場合は、心の機能と意識体験のギャップが大人よりずっと大きいと考えるべきではないかというのです。子どもは、思考と学習と体験が複雑で間接的な影響を及ぼし合っているのがよくわかるとゴプニックは言います。世界や自分の心について学習するにつれて、子どもの意識も変化していくのです。たとえば、他人の願望や信念は変わりえると知った子どもは、自分の願望や信念の変化も体験できるようになるのです。それは無意識の中で学習され、意識体験が絶え間なく絡み合っているのです。

 

だからこそ、乳幼児はその意識体験をたくさんする必要があり、一見大人にとっては非合理なものであり、一貫性の無いものであるように感じるのですが、将来の社会で生きる子どもたちからすると、そこに向かうための日々の体験が基本にあるのです。

「意識」の変遷

ゴプニックは子どもの意識の研究は哲学の重要な議論にも新しい光を投げかけると言っています。これは哲学の歴史における「意識」というもののとらえ方ですが、およそ100年前までの哲学では、私たちの行動は意識体験が引き起こすのだと考えられていました。つまり、自分の心を探れば、行動のもとになった概念や感情、判断が見つかると考えられていたのです。これをデカルトは「内省」と呼びました。デカルトは私たちが確実に知りえるのは意識体験のみであると主張し、ウィルヘルム・ブントやウィリアム・ジェイムズといった初期の科学哲学者もこれを踏襲しました。東洋の哲学や心理学で重視される内観瞑想も、これと同じものです。

 

しかし、この「内省」は厄介な矛盾もはらんでいると言います。「自分の心を見つめると、心の働き方も変えてしまうのではないではないか。」「監視人であり、自伝作家であり、経営者である内なる自己を、わたしたちは本当に体験できるのだろうか」という疑問が出てきます。これについてヒュームはこれを否定しました。ヒュームは「自己とは幻想にすぎず、探ろうとすれば消失するものである」と言っています。仏教においてもこのことと同じことを教えています。では、ヒュームのいうように「自己は最初からない」のでしょうか。それとも、「あることはあるけど、見つめようとすると消えてしまう」のでしょうか。また、これまでの考えのように「内省により、ありのままの意識体験を捉えるのは無理」なのでしょうか。

 

これについて科学的心理学の発達につれ、内省はいろいろな誤認をもたらすことがわかってきました。意識体験は、行動や心理学的な証拠とあきらかに矛盾することがあるのです。たとえば、以前外部意識の話で紹介した、不注意による見落としの実験では、ビデオの全場面を注視しているつまり意識下にあるにもかかわらず、ゴリラが通過したことを見落とした例や、 盲視者がある物体に手を差し伸べて、触ることができるという行動ができるのにもかかわらず、その物体を見るという外部意識の入力はそこでは起きていないといったこと。実際に経験するという意識体験をしていない出来事にも関わらず詳細な記憶といった内部意識を持つ例などを見ると分かります。また、実行制御にしても、本人は合理的だと確信している判断にも、無意識のうちに非合理なバイアスがかかることがあります。つまり、実際のところできないはずであるにもかかわらず、意識体験を通して体験しているという矛盾です。

 

これらの現象においては、そのいずれの場合においても、私たちはいるはずがないと分かっている頭の中の監視人、自伝作家、経営者を兼ねる脳内の小人「ホムンクルス」の存在を感じます。こういった一種の矛盾は確かにあります。いくら意識下に入っているとしても、それが認識しているとも限りません。逆に意識下になかったものであっても、体験しているように記憶できるものがあります。これは大いなる矛盾です。

 

こういった矛盾に対して、ダニエル・デネットなどの一部の哲学者は、意識は実在しないという過激な主張をしています。