過去から未来

赤ちゃんの頃から因果関係を学び、人間は反実仮想を用い過去を予測することや自伝的記憶を用い過去を回想するといったことができるようになります。では、なぜ人間はこういった過去や過去の反事実に投資することをするようになるのでしょうか。それは、もし、過去がなければ、私たちに未来もないからだとゴプニックは言います。未来を思い描き、その実現に向けて介入するとき、わたしたちはその時点で、未来の自分の運命を真剣に考えているのです。未来の自分を大切にできない人間は現在の生活も大切にしようとしません。

 

ゴプニックは「もしも未来の自分が今の私とまるで違う人間になり、人生は生きるに値しないと思うなら、彼女が人生の幕を閉じることに反対しないでしょう。人は未来の自分のために多大な犠牲を払えるのです」と言っています。確かに、我慢ができない人はその後のことが予想できないのではないのだろうかとニュースの事件を見ていると感じてしまうことがあります。特に感情的になり、事件やトラブルを起こすときは未来のことにまで気が回っていないことが多いのではないかと思います。

 

ただ、その予想の未来もどんどん過去に送られていきます。その結果、自分の人生への責任は両方向に及ぶことになるのです。未来を重視させている心の装置が、過去も重視させているのです。事実、自伝的記憶と未来を創造する能力は神経学的に関連があるという証拠も見つかっているようです。過去を想起するときも、未来を予測するときも、同じ脳領域が活性化するのです。つまるところ、過去への責任は、現在の自分に深い影響を及ぼします。そういった意味では、幼児期の後の人生に及ぼす影響は、複雑な相互作用や確率の積み重ねから生じるものばかりではありません。記憶そのものがその人の人生にとって終生重い意味を持ち続けるというのです。過去の自分があるから今の自分があるのです。

 

このように過去の重要性において、特に幼児期の記憶には、特別な道徳的な奥行きと痛みが伴うと言います。大人になってからの体験なら、多少は自分でコントロールできます。思い描いた可能性の実現に向け、自らの意思で行動し、それらの行動が過去の出来事として固定化されていくのです。わたしたちが過去の出来事に満足したり後悔したり、誇りや罪の意識をもったりするのも、そこに自分の意志が働いていたことを知っているからです。

 

しかし、大人と違い、子どもはその体験を受けるのは多くは受け身です。子どもの頃の体験については、当人よりも親をはじめとする養育者の方が、はるかに大きな責任を負うのです。そのおかげで子どもは、知識や想像力を養うために大切な探求を自由にすることができるわけなのです。大人は子どもの体験において、将来起こることを決めることはできません。大学や結婚相手も選ぶことはできないのです。しかし、幼いうちにどういった体験をさせるかというのであれば選ぶことができます。つまり、大人は子どもたちに対して、決めることはできませんが、子どもの後の人生で非常に重要な意味を持ってくる環境や体験をコントロールすることができるのです。