見守る
支援的な子育てとはどういったことをいうのでしょうか。森口氏は支援的な子育てとは、やみくもに子どもを褒めることとは違うといっています。もちろん、子どもを褒めることは必要なことです。しかし、子どもの行動を何でもかんでもほめればいいわけでもないのです。
トマセロ博士らの研究では、1歳半くらいの乳児の親切な行いがご褒美を与えられることによって減少することが示されています。1歳から2歳くらいの子どもは非常に親切で、見知らぬ人であっても進んで手伝ったり助けたりします。たとえば、知らない人が物を落としたりすると自ら拾いに行くいうのです。子どもは、最初はそのこと自体を楽しんでこの行為をおこないます。褒められたりご褒美をもらったりするためにおこなうわけではありません。ところが、手伝うなどの行為をした後にご褒美をもらえると、子どもは自ら進んで手伝わなくなります。最初は自発的に行っていた行動が、ご褒美をもらうことによって、ご褒美をもらうことが目的化してしまい、自発的に行わなくなるのです。
子どもを褒めるというのは一見、良いことをしたと子どもに意識させるために行うことが多いです。しかし、その行為自体が、子どもの自発性を損なうことがあるのですね。これは子育てに限らず、保育の中でも注意しておかなければいけないことです。森口氏は「自発性を損なうようなかかわり方は、子どもの実行機能にも負の影響を与えると考えられます」と言っています。「褒める」という行為の難しさを感じます。
森口氏はさらに「子どもが一度欲求をコントロールできたからといって、ご褒美をあげるのは考えものです。」と言っており、「子どもは自分のために自分を制御するのであって、人に褒められるために頑張るのではない」というのです。
保育を見ていると特に思うのは、「褒める」という行為や「怒る・叱る」という行為の意味です。どちらもあくまで「行為」の問題であり、子どもたちの関わりのおける本質ではないのではないかと感じます。大切なのは子どものその状況での気持ちや葛藤を理解し、共感することが保育においても大切になってくるのではないかと思うのです。最近、私はそのことを「相手の気持ちを見通す」というように言っています。相手がどう感じるか、どう思うかを考えたうえで、「怒る」や「褒める」ということを話さなければ、結局のところ相手に言葉が響くことは難しくなるのではないかと思うのです。
そして、そのためには「主体は誰か」ということをよく考えなければいけません。やみくもに褒める場合というのは「主体は大人」です。大人が子供に対して「こうなってほしい」をある意味で押し付けであったり、大人が上位にいる場合にそうなっているように思います。しかし、あくまで「主体は子ども」なのです。なんでも、大人が介入して褒めるのはおかしいというのはそういうことだと思います。森口氏はこの項目の最後にこう言っています。「子どもが主体的にやっていることに対しては、見守るような関わり方をすることが重要になってきます」と言っています。「見守る」ということは子ども主体になる距離感であるのですね。