2月2020

性格

いくら勉強ができても、KIPPアカデミーの生徒のようにその時代はよくても、その先に気持ちが持続しなかったり、目的を見失ってしまうことがあります。それは日本においても、就職しても長続きしなかったり、ひきこもってしまったりと社会問題になることが多いです。そして、このことには「気質」が大きく関わってきます。『オプティミストはなぜ成功するか』を著したセリグマンはこのことに対して「性格の強みと美徳」という本を書いています。これは「好ましい気質の科学的な分析」を始めようとする試みで研究されています。

 

まず初めにセリグマンは「性格」とは話をややこしくする言葉であると言っています。なぜなら、それは人によって意味するところが大きく異なるからです。また、それは特定の価値観への執着を表す言葉として表れることが多いというのです。つまり、時代とともに「よい性格」という意味が変わることは避けられようがないのです。ヴィクトリア朝のイギリスではよい性格の人物は、貞操、倹約、清潔、敬虔(けいけん)、礼儀作法などに重きを置く人のことでありました。西部開拓時代のアメリカであれば、良い性格といえば度胸や過剰なまでの自信、創意、勤勉さ、気概などを持ち合わせていることでした。しかし、セリグマンは著書を共に書き、共同研究をしているミシガン大学のクリストファー・ピーターソンとともにこうした歴史に伴う変化を超え、現代北米の文化の中だけではなく、どの時代のどんな社会でも評価される性質をつきとめようとしました。それはアリストテレスから孔子、ボーイスカウトからポケモン図鑑に至るまで、あらゆるものにあたって、多くの場所で高く評価されると思われる24の性格の強みをリストにまとめました。このリストには勇敢、市民性、公正、賢明、高潔といった従来高く評価されてきた特徴も含まれています。また、愛、ユーモア、熱意、美をめでる心といった情緒の領域に踏み込んだものもあります。さらに社会的知性(人間関係における力学を認識したり、異なった社会状況にすばやく適応したりする能力)、親切心、感謝の心といった日々の人間関係に関わるものもあります。

 

セリグマンとピーターソンの書くところによれば、ほとんどの社会において一定の道徳観を持っていることは長所とされ、多くの場合その道徳は宗教上の規則や制限と重なります。しかし、性格の強みの話をしようとすると、道徳の価値は限られたものとなる。なぜなら、道徳的な行いとは単に高い権威や規則に従っているだけの場合があるからです。彼らは「美徳は規則よりもはるかに興味深い」と言っています。セリグマンとピーターソンによれば、24の強みの真価はある特定の倫理体系との関わりから生じるのではなく、それが現実に利益を生むこと、つまりその強みをもっていることによって実際に何かが得られることにあると言います。そして、こうした強みを育てることは「良い人生」、つまり幸福であると同時に有意義で充実した人生へと通じる確かな道の一つであると言っています。

 

求められる人材というのは時代によって大きく違います。昭和初期などは「企業戦士」といわれるほど、トップダウン型に適応できる人が求められました。しかし、現在ではそういった良しとされていた性格は「イエスマン」や「言われたことしかできない」とネガティブな意味で捉えられる言い方に言い換えられています。確かに時代によってその性格の良し悪しは変わるのかもしれませんし、権威や宗教による規則や制限によって「道徳」のとらえ方も違うということが言えます。では、どうしたら、これからの変化のある社会や多様性を求められる社会で「豊かに」生きていくことができるのでしょうか。セリグマンとピーターソンは性格において、あることを定義しています。

気質

KIPPが始まって以来、レヴィンとファインバーグは学力と同時に良い気質を育てる授業をしようと明確に意識してきました。しかし、授業のコツや教育の参考になる教育者はいたのですが、気質の教育となるとその手本となる教育者を見つけられることができませんでした。そのため、KIPPではこういった気質を育てるにはどういった価値観や行動をしていけばいいのかを話し合うことが始められていました。

 

そんな中、2002年まだ、KIPPの最初の卒業生が高校生活を送っていたころ、レヴィンは投資管理の仕事をしている兄から『オプティミストはなぜ成功するか』という本をもらいました。著者はペンシルベニア大学の心理学者マーティン・セリグマンです。セリグマンはポジティブ心理学として知られる研究分野の中心人物の一人です。この1991年初版のこの著書はポジティブ心理学の基礎をなすテキストであり、「楽観主義とは生得的な気質ではなく習得できる技術である」と説いています。悲観的な人々もそれは成人でも子どもでも訓練次第でもっと希望を持てるようになり、そうなればより幸福に、健康になって、ものごとがうまく運ぶことが増えるというのです。

 

『オプティミストはなぜ成功するか』のなかでセリグマンは、多くの人々にとって鬱は病気ではなく、心理学者たちが信じるように「失敗の原因について悲観的な思い込みを心に抱いているとき」に起きる「ひどい落ち込み」であると述べています。そして、鬱状態を避け生活を改善したいなら、「説明スタイル」を変え、よいこと、もしくは悪いことが自分の身に起こった理由について自分自身のためのより良いストーリーを作り出す必要があるというのが彼の助言です。

 

セリグマンはペシミストには不快な出来事を永続的(パーマネント)なもの、個人的 (パーソナル) なもの、全面的(パーベイシブ)なものと解釈する傾向があるという。彼はこれを「3つのP」と言っています。「テストに失敗した?準備が足りなかったからじゃない、馬鹿だからだ」とか「一度デートを断られたら、もうほかの人を誘ってもしょうがない。だって自分がかわいくないのがいけないから」といった思考になるというのです。ずいぶんと悲観的な考え方ですね。

 

これに対して、オプティミストは良くない出来事については特定のものであり、限られたものであり、短期間のものであると解釈します。その結果、失敗のただなかにあっても気を取り直してもう一度やろうと思える可能性が高いのです。

 

レヴィンは本を読み進めていくうちに、セリグマンの3つのPの説明の多くが自分や同僚の教員や生徒たちに当てはまることに気づいたのです。そこで彼はセリグマンの著書から得た着想を基にKIPPアカデミーのスタッフに「反省と気遣いのための質問」のリストをつくり同僚の教員に配ることで、自分たちのやり方を再評価することをはじめました。

 

今日の日本でも、このセリグマンの著書に書かれていることに当てはまることがとても多いように思います。特に日本でかなり多くのうつ病になる人がいる状況を考えると、日本はペシミストの気質を持っている人が多いという証拠なのかもしれません。しかし、こういった気質は生得的、つまり生まれもって持っているものではなく、習得できるものであるということがいわれているのです。つまり、それは今の日本ではこういった気質を習得することが難しい環境が多いということを意味しているようにも思います。

性格の強み

KIPPのディビット・レヴィンはここを卒業した最初の生徒たちが大学で苦戦しているということに心を痛め、その対応策を探るため、大学のデータを集め始めます。しかし、最初のクラスだけではなく、2番目・3番目のクラスからも大学中退の知らせが舞い込むようになるとレヴィンはある興味深い事実に気づきます。それは大学で粘れるのは必ずしもKIPPでトップの成績をとっていた生徒たちではなかったのです。その生徒たちにはどういった特徴があったのでしょうか?

 

大学で粘ることができた生徒たちは「楽観的だったり、柔軟であったり、人付き合いにおいて機敏だったりといった、何か他の才能や技術を持った」生徒たちだったのです。そういった生徒たちは悪い成績を取ってもすぐに立ち直り、次回はもっと頑張ろうと決意できる生徒たちでした。親とのケンカや不幸な別れから立ち直ることのできる生徒、講義の後に特別に手を貸してくれるように教授を説得できる生徒、映画でも観に出かけたい衝動を抑えて家で勉強のできる生徒だったのです。こうした性質そのものはそれだけで学士号をとるのに十分な条件にはなりません。しかし、家族からの援助を当てにできない若者、裕福な学友たちが享受しているセーフティネットを一切持たない若者にとっては、こうした気質は大学を卒業するために欠くことのできない要素だったのです。

 

レヴィンが気が付いた大学卒業者に共通する気質は、ジェームス・ヘックマンや他の経済学者が非認知的スキルと呼ぶものと重なる部分が大きいのです。しかし、レヴィンはこのことを「性格の強み(キャラクター・ストレング)」と言っています。1990年代をはじめ、KIPPがヒューストンのミドル・スクールの教室が始まって以来、レヴィンと共同創立者のマイケル・ファインバーグは学力と同時に気質を育てる授業をしようと明確に意識してきました。壁には「コツコツ勉強」「人にやさしく」「近道はない」といったスローガンを掲げ、分数や台数だけではなくチームワークや共感や粘り強さを教えられるような褒賞と罰点のシステムを作り出しました。

 

もともとレヴィンとファインバーグは、新卒の若者を教師として派遣するNPO「ティーチ・フォー・アメリカ(TFA)」の第三期派遣団の一員としてヒューストンにきました。もともとは大学を出たばかりの無知な教師でした。最初のころはそれまでに会ったことのある革新的な教育者たちから授業のコツや戦略を借りることで、掛け算表からシェイクスピアまでどの強化も教えやすくなりました。しかし、気質の教育となるとレヴィンもファインバーグも手本を見つけることができないでいました。確立されたシステムがなく、それどころか議論もほとんどされていなかったので、KIPPでの話し合いは1から始めるしかありませんでした。どういう価値観や行動を、なぜ、どうやって育てるのか、教員と理事で毎年改めて意見を出し合うことをしていったのです。

 

その中でレヴィンは一つの本と出合います。そして、そこでの説明の多くが自分や同僚の教員や生徒に当てはまると気付いたのです。

足りないもの

KIPPアカデミーのディビット・レヴィンは抜群の成績でミドル・スクールを卒業し、名だたる一流の高校に進学していった最初の生徒を見て、強く手ごたえを感じたようです。その時はニューヨーク市で5番目の成績であったことや90%の生徒を私立か教区立の高校に入れたことで、「これで問題は何もないはずだ」と思ったそうです。しかし、ここである問題が出てきたのです。2003年のクラスのほぼ全員が高校を卒業し、ほとんどが大学に進学しました。しかし、そこから山は急に険しくなってきます。高校卒業の6年後、4年制大学の過程を修了したものは21%(8人)にとどまったのです。

 

タフ氏はその頃のことをティレル・ヴァンスから聞いています。彼は最初のKIPPのクラスの一人で、多くの点で典型的な生徒でした。最初に学校についたときには、独特の儀式やエネルギーに圧倒されます。なにより宿題はやってもやらなくてもいいものだとヴァンスは思っていたのですが、KIPPでは強制でした。この件に関してはヴァンスとKIPPの教員との間で長い闘いが繰り広げられたのですが、KIPPの教員の熱意によって、ヴァンスも熱意で応えるようになりました。彼は最後にはクラスメートや教員を「家族」といった感じにまでなっていたそうです。

 

ヴァンスはクラスのほかの多くの生徒と同じように数学が得意で、全市統一テストでは高得点を取り、8年生の時に9年制の過程を終えるほどでした。しかし、高校にあがると向上心の溶鉱炉のようなKIPPのクラスから離れると熱意を失ってしまったのです。成績はミドル・スクールの頃にはAやBが並んでいたのですが、Cで埋まるようになっていきます。このことについてヴァンスは「KIPPのおかげで学業への準備はよくできたけれど、感情面、心理面の準備ができていなかったのだと思う」と言っています。そして、「自分がやっていることをみんなが知っているような、家族みたいに密な集団から、放っておかれることの多い高校に行きました。宿題をやっていても、誰もチェックしません。となると、高校生活のことは自分でやれるように成長するしかなかった。おれたちにはその準備ができていなかったのです」というのです。

 

高校を出た後、ヴァンスは4年制の大学にいくが、そこでの科目も退屈に感じるようになります。専攻を変えてみても、学部長とそりが合わず、結局退学することになります。その後、靴屋で働いたり、別の州立大学に入学したが、学費が底をつき、やめることになります。ここ数年はコールセンターで顧客サービス窓口として質問に答える仕事についているが、かれはそれを楽しんでいるそうです。彼は今までに成し遂げたことには満足はしているけれど、振り返れば後悔もあると言っています。「たくさんの可能性があった。それをもっとなんとかするべきだったかもしれません」

 

この内容を受けて、真っ先に出てくるのが一時期問題になった「燃え尽き症候群」です。大学に入ってから、結局やる気にならず退学する生徒が多かったことから言われるこのもんだですが、ここで出てくるヴァンスと同じことが起きていたのだと思います。ここでヴァンスはとても特徴的なことを言っていました。それは「自分でやれるように成長するしかなかった。おれたちにはその準備ができていなかった」ということです。大学に行ったら、自分のやりたいことは自分で見つけていかなければいけないのです。それは社会に出ても同じです。だれもその先を照らしてはくれないのです。つまり「他律」になっていたのですね。結局、素晴らしい成績を残したとしても、それが指示されなければできないのであれば、宝の持ち腐れです。使うことができないのです。これは最近の若者にとっても同じことが言えるそうです。

 

以前リクルートの方と話す機会があったのですが、そこでも「有名大学を出たからと言って会社で優秀な人材かというとそうではない」と言われていました。そこには学ぶべき目的を持っていなければいけないのでしょう。「何をまなんでいるか」ではなく、「なんのために学んでいるのか」ということを考える必要があるのだと思います。

KIPPの実践

1999年サウス・ブロンクスで10代前半の38人がキップ(KIPP)アカデミーのミドル・スクールを卒業しましたが、彼らが8年生だった時のクラスはアメリカの公教育史上最も有名なクラスかもしれないとタフ氏は言います。というのも、このクラスは全員が黒人かヒスパニックで、ほぼ全員が低所得層の家庭の子どもであり、4年前に4年生の教室からディビット・レヴィンに引き抜かれた子どもたちでした。レヴィンは25歳で白人のイェール大学の卒業生でした。そして、「僕の新しい学校に入るなら、君たちを公立学校の典型的な学業不振の生徒から大学進学を目指す学者の卵に変身させて見せる」と約束し、親や子どもを説得したのです。KIPP(「知は力なり」ナレッジ・イズ・パワー プログラムの略)での4年間は新しい学校生活の中で過ごしたのです。

 

これは高エネルギー・高密度の授業が続く長い一日と、入念につくられた態度強制・行動変容プログラムを組み合わせた学校生活であり、レヴィンがそのつど、考えて見えることも度々あるようなものでした。レヴィンのやり方は効果を上げ、しかもそれが過ぎに目に見える形で成果が表れます。1999年の8年生の全市統一学力テストで、KIPPアカデミーの生徒たちはブロンクスでは最高、ニューヨーク全市でも5番目の成績をあげ、これは入学時に成績を問わない貧困地区の学校としては前代未聞の成績でした。このことでニューヨークタイムス紙の一面にKIPPについての記事が載り、CBSのドキュメンタリーでも取り上げられるものでした。その後、GAPの創始者ドリス&ドナルド・フィッシャーの目に留まり多額の寄付を決意させたことにより、KIPPは全国組織へと拡大しました。その結果、各地に100を超えるKIPP方式の特別認可学校(チャーター・スクール)ができ、KIPPはチャータースクールや教員の労働組合、共通テスト、学習への貧困の影響などに関する国内議論の中心であり続けたのです。

 

そのKIPPアカデミーの最初の生徒たちはまるで脅しだと思われるほど、高度な教育の重要性をたたき込まれます。学校の廊下には大学の校旗が並び、どの教師も受け持ちの教室を母校のグッズで飾ります。会談の吹き抜けには大きな看板があり、そこには「大学への山を登り切れ」と書かれ、生徒たちはそれが自分の使命だと信じていました。卒業したときにはまさにその態勢が整っているようでした。彼らは抜群の成績でミドル・スクールを終えただけではなく、ほとんどの生徒が一流の私立高校やカトリック系の高校に進学を決めており、全額給付付きの奨学金を受けられるものも少なくありませんでした。

 

しかし、これだけ抜群の成績を残したにも関わらず、この最初の生徒たちについて、一つの課題が見えてきました。そして、このことは成績や偏差値偏重の今の教育環境や知能至上主義に一つの問題を投げかけているように感じます。KIPPの生徒はどういった様子を見せ始めたのでしょうか。