10月2019

海外の保育環境

見守る保育において、藤森平司氏がいる新宿せいが保育園では、部屋は0・1歳児室、3・4・5歳児室では大きな一つの空間を作り、家具や可動式間仕切りで空間を仕切っていることで保育環境を作っており、それは日本家屋における柔軟性のある住居環境に近しくなっています。これに対し、海外ではどういった保育環境になっているのでしょうか。著書ではドイツ ミュンヘンの保育環境が紹介されていました。

 

ミュンヘン市の保育施設では制作、絵本、パズル・ゲーム、ごっこ遊びなど用途ごとに部屋が分かれ、各部屋は堅牢な壁で仕切られ廊下に面して並んでいます。そのため、部屋同士の行き来にはドアを開け閉めし廊下を移動しなくてはなりません。その作りは、保育士室だけではなく、生活住居においても、キッチン、ダイニング、リビングなど各部屋が用途ごとに分かれているのが欧米的な居住空間の特徴です。こういった住居空間づくりに関して、日本人は、かなり自由に空間を多用途に使ってきたということがわかります。

 

そして、ミュンヘンで見学した、3~6歳児、75名の園では、保育室が大きく3つのコンセプトに分かれていました。1つ目は「自然観察・積み木」。2つ目の部屋は「工作・お絵描き」などのクリエイティブな活動をする部屋、3つ目の部屋は「ごっこ遊び」をする部屋で、それぞれの部屋は内部で広い部屋と狭い部屋の2パーツに分かれいました。そして、玄関ホールは運動をする部屋になっていました。そして、子どもたちは登園すると好きな部屋で好きな遊びをします。各部屋には保育者は2名ずつ配置されています。

 

しかし、一応は所属する部屋があり、お集りや昼食のときには自分が属している部屋に行きます。ただ、保育者の許可を得れば他の部屋に行っても構わないそうです。こういった保育を「オープン保育」と名付けていますが、「遊びは子どもの職業」ということで、子どもに対し、「遊びへの自主的参加」を促すことを意味しています。そして、その部屋の装飾や作り込みは、その部屋の担当の個性が出ています。「空間は第3の保育者」がモットーだということでした。

 

子どもが空間の使い方やあり方によって受ける影響というのはとても大きいと考えられているのですね。日本では私の感覚ですが、どちらかというと「先生対子ども」といった人的環境に関しての話が多いように感じます。物的環境や空間へのアプローチというのはそれほど話の中でもそれほど重要視される内容としてはまだ少ないように感じます。しかし、その空間のあり方、人的環境においても「大人対子ども」だけではなく、「子ども対子ども」といった発達過程から影響を受けることなどは、まだまだこれから研究や考えていかなければいけない内容ではないでしょうか。子どもに与える環境と言っても様々ですし、子どもの様子をとらえ、環境を整えていく必要がありますね。

日本家屋とアメリカの家屋

藤森平司氏は著書「保育の起源」の中で、保育における住居のあり方についても触れています。住居は空間的な環境だけではなく、前回も書いたように「家族」といった人的環境にも影響があります。また、物的環境も提供してきたといいます。そのため、住居は風土(土壌・気候)、風俗、住まう人間の心理・動線、生活のあり方、人間関係に密接に関係しています。そして、保育をする上で、日本の伝統的な家屋を知ることは有意義なことなのではないかと言います。なぜなら、そこには日本民族の社会や生活に対する審美、倫理、そして、道徳観といった日本民族に属する文化の諸相が見えてくるからです。日本家屋のような建物で生活をすることはなかなか少なくなってきていますが、日本の住居形態に表象された価値的関心や志向を取り上げることは保育施設における生活の環境のありかた、特に乳幼児を中心とした大人との共同生活の環境のあり方の見直しにつながると藤森氏は言います。

 

エドワード・S・モースは日本人の住まいと、それに直接かかわりを持つ周囲の環境について、1886(明治19)年『Japanese Homes and Their Surroundings』(日本人の住まいおよびその生活空間)という本を著しました。それは日本語でも訳され『日本人の住まい』として出版されています。その著書の中で序論に《日本の家屋の開放性と近づきやすさとは、それ自体が日本の顕著な特質である》と述べ、《外国からの訪問者は、誰も彼も例外なく、独特の性格を持つ日本人の住居についての楽しい記憶を抱きながら、帰っていくのである》と書いています。藤森氏はこの言葉を受け、モースの言う《日本人による典型的な産物の一つ出ある》というところから日本の家屋をもう一度見直し、その伝統を保育室にどうしたらいいかを考えていきます。

 

モースは日本の家屋に日本人の生き方を見ます。そして、その家屋の表象しているものは「美しい貧相」と「開放的な平穏」という言葉で表しました。そして、米国の家屋との比較において「日本の家屋をわがアメリカ家屋に比較した場合に見られる主要な相違点のうち一つは、仕切り壁とか外壁とかの設営方法にある。わがアメリカの家屋にあたっては仕切り壁および外壁は堅牢であり、かつ耐久性を持っている。したがって、骨組みができあがったときには、この仕切り壁がすでに骨組みの一部をなすのである。ところが、これとは逆に、日本家屋にいたっては、耐久壁に全く支えられていない側面が二つもしくはそれ以上も存在する。屋内構造においても、まったく同様で、耐久性に匹敵するほどの堅牢性を持つ仕切り壁などは、ほとんどまったく存在しないのである。その代用として、床面と上部で固定された溝にはめてするすると動かせるようになる、軽くてよく滑るふすまがある。この固定された溝が各室を区切るようになっている。この動くふすまは、これを左右に動かせば開放されるようになっており、場合によっては全部を取り外すことさえできるようになっている。ふすまを全部取り外してしまうと、数室を一括して一つの大広間として使用することもできる。これと同じような全面撤去の仕方で、家屋の一つの部屋から他の部屋へ行こうとする場合に、自在ドアを開けるなどのことは全然必要がない。窓に代わるものとして、外襖すなわち、白い紙を貼った障子があり、これを通して屋外の陽光が室内に拡散するようになっている」と言っています。海外の家屋と日本の家屋と比べると日本の家屋はずいぶん自由度がある作りになっていることに対して、海外の家屋は堅牢であり、耐久性に優れているところが特徴的にあるのですね。

 

見守る保育の中では、0・1児室、3・4・5児室は大きな空間になっています。そして、制作や絵本など多くの遊ぶ空間は可動式間仕切りや家具で空間を区切っています。そして、モースが言うような日本家屋のように可動式間仕切りや家具を動かすことによって、空間の一部を閉めたり、全部開け放したりすることで保育室を自由に仕切ることができます。こういった作りの考え方は日本家屋につながりますね。

人間にとっての住居

藤森平司氏の「保育の起源」には日本の住居学からも保育を見ています。そして、人が生きる中で住居という場所はとても重要な要素があるといいます。それは「安心する空間」としての意味合いがまずあてはまります。そして、「仲間と一緒に食事をする空間」という意図があります。人はこれまでの社会脳の中であったように集団になって生活することで生存戦略を進めてきました。そのため、安心でき閉じられた空間を確保できたことで仲間とともに食事をすることができるようになりました。そして、その仲間と食べるという行為、「共食」という行為は人類の特徴であるといわれています。

 

その空間では様々な世代(赤ちゃん~年寄りまで)がおり、火を囲んで、輪になって食べていたのでしょう。そこで赤ちゃんは様々な発達過程の他者を見ることができます。そして、「食べる」という同じ行為を見て、様々な発達過程を見ることができたのです。そういった他者観察を通して赤ちゃんは自己を確立していったのではないかと推測されます。そこでは自己と他者、年齢の違い、男女の違い、多くの違いを感じていたのではないかと言われています。そういった仲間集団の中には、仲間の安全や健康を祈願して豚を生贄にした部族があったといいます。それができたのも安心できる空間があったからこそだといいます。そして、この安心した空間の中で豚を生贄にした姿を表したものが「家」という字だといいます。この安心できる空間とする家は、赤ちゃんにとって共食の中で自己を確立する以外にも、人となるうえで重要な役目を果たすといいます。

 

その一つが「大声で泣くことができる」ということです。泣き声を出すということは敵に居場所が見つかる可能性を上げてしまうとても危険な行為です。しかし、守られた空間であるがゆえに大声で泣くことができたのです。そして、泣くことで、深呼吸するようになり、肺が強くなり、また、息継ぎを覚えることが次第に言葉の獲得にもつながっていくのです。そして、言葉の獲得はヒト属の特にホモサピエンスにとって重要なものになります。この言葉の獲得も、安心できる空間のたまものかもしれないと藤森平司氏は言います。

 

次に、安心できる空間があることで脳の発達にもプラスの影響がおきてきます。人間の赤ちゃんは自力で立つまでに、寝返り、ずりばい、ハイハイなどゆっくりと過程をふんでいきます。その過程は直立するための準備なのですが、同時にその間に、ゆっくりと十分に脳を発達させることができたのです。そのため、安心できる空間には、赤ちゃんが移動できるある程度の広さが必要だというのです。

 

このことを踏まえて考えると、最近の集合住宅では赤ちゃんは大声で泣くことも許されず、様々な発達過程を見ながら食事する仲間もおらず、移動することのできる十分な広さもないといったことが多いかもしれません。現在のわれわれの住む住居は本来の「家庭」とは違うものになり始めているのではないかと藤森氏は言います。

 

人の進化や文化は人類の知恵の集合体であり、一つ一つの文化は生きる力としての意味や意図のあったものなのでしょう。これまでのAIの話でもあったように、これからは「そもそもの人」というものを知っていかなければいけない社会になってきます。人の本来の営みから改めて学ぶことは多いように思います。便利な世の中になったがゆえに、人が捨ててしまっているものもあるのかもしれません。それが「進化」として、これからも有意義な知恵としての進化であるといいのですが、そうでないのであれば、もう一度こういった過去の人の営みから学ぶ必要はあるのかもしれません。

AIの進化とこれから

 

AI開発を世界中の研究者が行っていく現在の状況を見ているとAIの研究は今後も続いていくでしょうし、新しい発見や複数の技術的なブレイクスルーを経て、AIは言葉の意味を理解し、常識や知識を身につけていくのではないかと「ニュートン」2019年9月号で言われています。しかし、ここでのAIの開発において「汎用AIは人がもつ概念と全く同じ概念を獲得するわけではない」と言っています。「独自の概念で物事の特徴をつかむ」とあります。たとえば、ヒマワリを認識するとき、人は「花びらの色や形」などでとらえますが、AIは人には捉えられないような何らかの特徴を基にして、ヒマワリと断定しているかもしれず、汎用AIが様々な概念を獲得したとしても、その“頭の中身”は人にはわからない「ブラックボックス」になっているというのです。

 

AIには人の本能に関係する「心地よい」や「美しい」などの抽象的な概念を理解することも困難だと考えられています。汎用AIが、人をこえる知能を獲得できたとしても、人と同じような感じ方をする機械にはならないと考える研究者が多いようです。しかし、このことに対して松原博士は「AIが悲しんだり喜んだりする様子を見せれば、人はAIが心を持っていると感じるでしょう。人も他人が心をもっていることを証明できませんからAIに心があると思えれば、その時点で『AIは心を持っている』と言ってもよいのではないでしょうか」と語っています。実際のところ、考えるプロセスは同じでも、構造はやはり人とAIとは違うのです。しかし、その表現が備わっているのであれば、人は心や感情があると感じるでしょうし、感情があるとみなしてもいいのではないかと言っているのです。どこまでこだわるのかというのと同じなのかもしれません。

 

現在、「地球には人と同等の知能を持つ生き物は存在しない。」と「知能」は人だけがもつ特別なものだと考えがちだといいます。1997年にAIがチェスの世界王者に勝利したとき「そんなのはあたりまえだ」という意見があったそうです。これは「人工知能効果」と呼ばれる心理の例だといえます。私たちはAIにもできるようになった行為は「そもそも人の知能の本質からは遠い単純な行為だ」と考えがちなのです。それは知能というものを私たちは特別視していて、その領域をAIに侵されることに恐怖を感じているからこそおきると考えられています。

 

松原博士は「AIは今後、さまざまな分野において人の知能をこえることになるでしょう。そのたびに人にしかできない領域は減っていき、知能の定義は変わっていくのではないのでしょうか」と語ります。そして、「AIの進化によって『人がもつ知能とは何なのか』という疑問の答えも得られるのではないのでしょうか」と話しています。現在の研究では人間は知能がどのように生み出されていくのか、その仕組みはわかっていません。もし、人の脳を模してつくられたAIが人をこえる知能を持つことになれば、私たちがもつ知能のしくみも明らかになるかもしれないといいます。

 

汎用性AIが実現していくことは人の知能自体を知ることにもつながるのですね。このことに関しては私も思うところであります。今後の社会において、人の仕事の多くはAIに代替されていくことになっていきます。つまり、AIができない仕事を探していくことや見つけていくことが必要になってきます。おそらくその仕事は“人にしか”できない仕事になるでしょう。ということは、これからの教育や保育においてはより人間性を中心とした教育になっていかなければいけません。そして、AIをうまく使いこなす力でなくてはいけないのです。AIができることを勉強することはかえって自分たちの社会での活躍の場を狭めてしまいかねないのです。教育や保育に携わるものとして、これからの社会をしっかりと見据えた保育をしていかなければいけないのですね。

真のAI

AIは「適当に考えることができない」ことや「ほんとうの意味を理解していない」ことが弱点であるといわれています。では、この弱点を克服した「真のAI」つまり、人と同じような常識をもち、どんな問題にも対応できる「汎用AI」はいつの日か実現できるのでしょうか?そもそも汎用AIとはどのようなモノになるのかなどについて見ていきます。ここでいう「汎用AI」はある特定の仕事だけができる「特化型AI」とはことなり、人のように多様な仕事に取り込むことができ、突発的な事態が生じても柔軟な対応が可能なものということです。こういった汎用AIを実現するためには、前回話にあった「フレーム問題」と「シンボルグラウンディング問題」を解決しなければなりません。

 

 

その一つの方法が「AIに身体を持たせる」ことです。画像認識AIはディープラーニングをつかって、猫の大量の画像から猫の特徴をつかむことができます。視覚に限って言えば、AIはすでに人と同等以上の識別能力を持っているといえます。これと同じように多種多様なセンサーを搭載させたロボットを使い、嗅覚、聴覚、触覚などの他の感覚でも実現できれば、AIに人間と同様の“常識”を身につけさせ、2つの弱点を解決できるかもしれません。一方で、このような学習のために必ずしも実際のロボットは必要ではないという意見の研究者もいます。それはコンピューター上の仮想世界で、現実の世界と似た経験と学習をAIにさせればよいという考えです。この場合、人間に似たロボットを作るという大きな課題を避けられますが、現実の世界のように自然法則にしたがって動く仮想世界を作る必要があります。また、ディープラーニングとは異なる新たなAI技術が必要だと考える技術者もいます。つまり、まだまだ、人と同じような汎用性のあるAIを実現させるためには課題は山積みなのですね。

 

 

結局のところ、人と同じような身体を作る外的要因をもつのか、それとも仮想世界を作るといった内的な要因によって人の感覚を得る経験を積むのかといったことがなければ人と同じような真のAIにはなることは難しいのですね。人は五感を駆使して様々な感覚を得ることで、感覚として関係あるものを適当に判断すること(フレーム問題)や言葉を記号としてではなく、実物像との関係性を知ること(シンボルグラウンディング問題)も実世界の中で過ごすことで判断できるようになっているのですね。最終的には外か内に「人の形」を作ることが“真のAI”に近づくことになるのでしょう。そして、それが可能になり、実現したときに人の社会はどうなっているのでしょうか。ロボットとの共生という世界はどういった社会なのでしょうか。鉄腕アトムのように「心」をもつAIは表れてくるのでしょうか。わくわくする内容ですが、その反面、不安なことでもありますね。