10月2019

生活空間に関する意識

マサビュオーは私たち日本人が自然と共存しながら暮らしてきた中で培ってきた生活空間に関する意識を、4つの次元と定義しました。

 

1つ目は「空間の把か握」。地震が多いなどの厳しい自然環境の下で農村や都市をつくってきた日本人が、自然を自分たちの内部としておのずと組み入れてきたことにまず注目します。

 

2つ目の次元は「空間の秩序」日本では農村であれ都市であれ、共同体のしっかりした枠組みの中で人々の生活が展開してきました。それについてマサビュオーはこういっています《日本では、住居がみなお互いよく知り合っていて、毎日のように行き来する小部落や街路のレベルで、まとまった空間が認められ、そこに一定の秩序が生じている》《比較的狭い空間を占有し、そこを自分たちの生活空間として確保しているような共同体では、家族や近所の人たち、また生産関係による付き合いのある人たちとの間に序列関係が存在し、そのためにさまざまな義務が生じる。こうした状況に共同体成員の行動が基礎づけられるのである。空間的にも時間的にも枠組みが限定されているので、こうした共同体的構造が見出されるのは、特に小さな部落においてであり、都会の街区で、先祖とのつながりや伝統的な雰囲気が欠如しているようなところでも、それほど純粋な形ではないが、認められる》と言っています。このような共同体的構造が、日々の務めのために必要な空間的、時間的な枠組みを成立させていると彼は言っているというのです。そして、その務めとは、生産、商売、整備の維持、祭り、葬式の時の相互援助など多岐にわたります。

 

たとえば、農村地帯では小さな共同体での協力・相互援助体制によって灌漑のための水路や屋根や道路の定期的修復作業を行ってきたのだろうといいます。実際、私の父親の幼少期などは田んぼに通す用水路の掃除を地域の人と一緒になって定期的に掃除をしていたといいます。そのなかで、幼少期の父親は魚を捕まえたり、遊びながら手伝いをしていたといいます。こういった幼少期のお手伝いを大人と一緒に行うことで自然とその地域の社会的規範を学んでいたのでしょうね。また、人口の密集し住居がせまく、隣の家との間がないような江戸の町には「頼まれたら厭と言わぬが江戸っ子気質」という気風があり、江戸に住む庶民を表す言葉があるそうです。そして、それは江戸という都市での協力・相互援助体制を表す言葉なのでしょう。

 

そして、3つ目は「空間の使用」です。これについてマサビュオーは「まず、空間が把握され、占有され、秩序が与えられたならば、その空間はつぎに人間生活のさまざまな局面に適したものにされなければならない」と言います。日本における自然の特徴は、自然条件が厳しく、また自然空間が細かくわかれていることだといっています。それはどういうことを言っているのでしょうか。

日本の家屋と自然

これまでにも人間という種族は人と集団を形成し、「協力する」ことで生存戦略を立て、生き延びてきました。そのため、子どもたちはどこかの時点で自分が社会規範を基準として他者に評価される対象であるということを意識するようになると藤森氏は言います。社会規範はなんらかの複雑な形で、その社会集団全体の視点や価値体系を象徴していると考えられています。そして、子どものたちは2種類の社会規範に沿って振る舞うというのです。それが「協力の規範(道徳規範を含む)」と「遵守の規範(制度的規範を含む)」です。それは人類が「協力」するために必要な力を遺伝子としてつないできたものと言えるというのです。そして、こういった社会的規範は、秩序を作るといわれています。

 

日本に住み、『家屋(いえ)と日本文化』を著したフランス人地理学者ジャック・プズー=マサビュオーはこんな指摘をしています。「日本の住居は、お互いの人間関係を乗り切っていくための生活の規則を教育しているのである。寒さや暑さから身を守ってくれるのではなく、寒さや暑さに耐えるための共同体的な規律を教え込もうとしている。地震や台風に対しては日本の住居はもろく、それは地震や台風にあっても生き延びていくための厳格さ、助け合い、人間の力の限界を知ることなどの精神的価値を維持していくの適している。そこに住んで、日々の行為を実行しさえすれば、つまり生活しさえすれば、真、美、善についての規則を教え込んでくれるのである。日本の住居は秩序であり、記憶である」

 

日本の住居に住むことで日本人は日本における文化を自然と知り、身につけていくというのです。日本はマサビュオーが言うように、地震も多く、台風の被害にあうことも多いですし、私の父や祖父に聞くと、洪水や水害の被害にあうこともよくあったといいます。そのほかにも障子や襖といった敷居は今のアルミサッシとは違い暑さや寒さの影響を受ける居住環境であり、今の家屋と日本家屋では趣が違います。このように日本家屋は災害に弱く、気候の変化にもその影響をうけてしまいます。しかし、マサビュオーはそういった日本家屋の特徴にこそ、日本人の精神的価値の特徴が見えてくるといっています。彼は、日本人は自然と暮らしをうまく共存させて来たといいます。

 

以前、東日本大震災のあとの話ですが、地震により津波が起こったとき、その津波の到達点に石碑があり、過去にもそこまで津波は来たという記録があったといいます。こういった形を残し、未来に向けて、警告や記録を残していたというのも、先人の知恵であったのでしょう。また、日本家屋の作りは様々な「造り」を工夫してつくられており、特に「宮大工」至っては、くぎを使わずに木の本来持っている「しなり」を利用することによって地震の揺れに耐えるように作られています。だからこそ、法隆寺などは1000年以上たったいまでもその姿を残すことができるのです。こういった家屋の造りの複雑さや昨日さには知恵や圧倒されるほどのすごさを感じます。日本人は様々な災害を通して、対応していくということにおいても、自然に対する畏敬の念を基っと持っていたのだろうことを感じます。そして、「自然を御する」のではなく、うまく「共存」「共生」するということが考えられていることがわかりますし、うまく「いなす」というのも日本の特徴なのかもしれませんね。

花と生活

昔の日本家屋の環境では、床の間に季節の花が生けられていました。また、柱には花器が掛けられ、生けた花が飾られていました。その花は栽培された派手な花ではなく、質素な野の花が生けられていることが多く、室内に居ながら野の道を歩いているような気分になるといいます。では、一方でドイツミュンヘンの保育室はどうなのかというと保育室の中には緑が多く、街の中、家庭の中にも緑が豊富であるということにつながります。ミュンヘン市内をバスで走っていても、街には壁面緑化された建物や緑の豊富な街並みが広がっています。それは生活の中でも緑が多い環境で、自然を大切にする国民性がそうさせているのかもしれません。そういった意味では日本人も本来は自然を大切にし、里山のような、自然と共生する生活をしてきたはずではないかと藤森氏は言います。

 

モースの『日本人の住まい』の訳者 斎藤正二さんは、解説に「モースは1887年8月~12日まで試みた2度目のヨーロッパ旅行の途上で、いかに『日本の家屋』がミュンヘンやオランダの学者たちの間で大評判をかち得ていたか、ということを知り、それについての無邪気な喜びを自らの日記にしたためている」と書いています。その中で特にドイツ人は感銘を受けたようで、モースが1887年9月、ハンブルク博物館長のブリンクマンのもとを訪れたところ、《彼は「日本家屋」を非常に熱心に褒め、この課題に関する素晴らしい著作であり、自分はしばしばその本から引用しているといった。私は彼が私をよく知らないのだとわかり、話を中断し、その本は私が書いたのだといった。彼が目を見開き、それから私の手を握り、私に会えたことの喜びを表現しようとしているのがうれしかった》と記しています。そして、モースは日本家屋について《室内装飾品、およびこれら装飾品を作り出すのにさいして、日本人のうちにはたらいている制作原理について、さらに数ページを割いて触れておかなければと考える。上層階級から下層階級にいたるまでもっとも普遍的な室内装飾は花を使うので、まずこれから取り上げようと思う》といっています。日本人は上層階級のお金持ちだけではなく、下層階級の生活が貧しい人々も室内に花を飾ることをしていたのですね。非常に生活の中にも花が身近にあったということが伺えます。

 

そして、モースはこういった日本人が花を装飾することについて「花を愛する心が一般化している国はないというほうが適切かもしれない。また、絵を描こうとする場合にもっとも一般的な画題の一つは花ということになる。そして、装飾芸術としては、その自然のままの、あるいは伝統的な形態からして、つねに主要な動議付けとして選ばれる」と書いています。またモースが日本を訪れた明治当初の日本では、すべての層の人たちが花をめでていることに気が付いのです。簡易な手作り品である刺繍、陶器、漆器、壁紙、扇、また金属ないし青銅製品のいても花が描かれ、また造形の対象になっていることに驚いています。モースは「社会生活においても、これらの花をあしらった物品が絶えず顔を出す。誕生から死ぬまで、花はなんらかのかたちで日本人の日常生活にかかわりを持っている。日本人は死ぬと、そののち何年ものあいだ、墓前に新鮮な花を供えてもらえる」

 

確かにお葬式にも多くの花を飾りますし、棺の中にも花を入れます。海外の映画などで葬儀のシーンなどを見ることがありますが、そこに花はあまり見ることはないように思います。私たちはドイツに緑が多いことに驚いていますが、日本人は明治期にはドイツ人にも驚かれるほど、日常の中に花をあしらったものや室内装飾においても、花は身近にあったのですね。しかし、最近では花柄というものをあまり見なくなっていますし、家庭に花を生けることや集合住宅になり花壇を持つことも少なくなってきました。時代の移り変わりやライフスタイルの変化によって、花や緑との関わり方も今の時代は変わってきているのかもしれません。もしかしたら、海外から学んでいることは、日本の逆輸入になっているものも少ないのかもしれません。

保育室にある「緑」

ドイツの海外研修に訪れたときに、驚いたのが緑の多さです。それは保育室内だけに限らず、園外においても非常に多くの緑がありました。また、ビオトープなども用意されており、トイレの中にまで、たくさんの緑が用意されている印象があります。ミュンヘンでは窓際の棚の上にも植物が置かれています。そして、それは園だけではなく小学校の窓際ですら植木が並べられています。それも観葉植物だけに限らず、花の咲く植物も置かれています。それに比べると日本の保育園はドイツに比べると保育室に緑がほとんど見られません。

 

日本で行われている研究の中で「緑視率」というものがあります。それは「視界に一定以上の割合の緑が入ると仕事の能率が上がる」という研究です。ドイツのミュンヘンの保育士方がそのことを知っているということはないでしょうが、ドイツの環境は四方だけではなく、上方においても緑があり、その多さが伺えます。そして、そこにある植物は基本的に自然の植物であり、造花は使ってはいません。そのため、その植物は酸素を排出し、空気を清浄化し、加湿をしてくれます。カポックという植物の葉は、よくある加湿器並みの湿気を室内に出すことが知られています。また、「緑視率」の研究の中には、さらに効果を増すものとして「自ら育つ緑である」ということがあります。「自ら育ち、成長していく植物が机の上にあることで、より効果がある」という結果も出ているそうです。

 

では、なぜ、日本の教室や保育室には緑が置かれていないのでしょうか。よく言われる理由は「小さい子どもが土をいじる」「葉をちぎってしまう」「植木鉢を倒してしまう」ということが言われます。そのほかにも「育てるのが大変ですぐ枯らしてしまう」ということも言われます。なぜ、ドイツのミュンヘンでは子どもたちが倒したり、葉をちぎったりしないのでしょうか?

 

藤森氏はそれは「保育のあり方」にあると考えています。

藤森氏は「明確な理由がこれということはよくわかりませんが、まず、ミュンヘンの保育室には教具、遊具があふれんばかりに置かれていることも理由の一つかもしれません」と言います。確かに、ミュンヘンの保育室には教具や遊具が豊富に置かれています。乳児のころからたくさんの遊具が棚に並べられ、いつでも自分で取り出せるようになっています。つまり、土や葉を触る必要の無いくらい環境が充実しているのです。もう一つの要因は、子どもたちがとても落ち着いています。テンションが上がっている子や走り回っている子、大声を出している子はほとんど見ることがなかったと藤森氏は言います。それは好きなことに黙々と取り組んでおり、植木にぶつかったり、倒してしまったりすることがないのではないかというのです。また、なぜ枯れないのか、葉にほこりがついていないのはなぜなのかということも不思議に思ったそうです。枯れないように植物に水をあげたり、葉のほこりを拭いていたりする姿を見たことがないというのです。これは毎年ドイツに海外研修で見ているからこそ、よりそのことを感じたのでしょう。

 

こういった園にある植物に関して、藤森氏はこう言います。

「私の園では植木の枯れ具合で、保育室の落ち着きぶりを見ることがあります。心に余裕がないと、植木は枯れてしまいます。植木が水を欲していることに気が付かないということは、子どもの心が渇いているのにも気が付いていないように思うのです」

 

観葉植物やそのほかの植物の生育の生育状況からも保育のあり方が見えるというのはあまり考えたことがなかった指摘です。確かに毎日が余裕のない日々だとしたら、観葉植物にまで気が回らないということがあるでしょうし、ひとつの指標として見ることができるのかもしれません。また、緑視率を考えてみると、子どもの保育環境においても、緑の意味というのは影響があるということがわかります。日本の保育室はドイツに比べると緑は確かに少ないです。どういった環境が必要なのか、子どもたちが落ち着かない理由の一つに「緑」というのもあるのかもしれません。そういった視点においても、日本の場合は空間というものに関して、自然物よりも装飾など大人の作ったものが多く壁に飾られているように思います。

 

では、このことに対して、古来からの日本家屋はどういった室内環境だったのでしょうか。

日本家屋の影響

モースは、日本家屋と欧米家屋との玄関についてこう比較しています。

「アメリカの場合であるが、家に入って直ちに目につくのは玄関広間ないし玄関口の会談である。この階段の手すりと、美しくカーブする手すりとは自慢の造形なのである。比較的つくりのよい家屋では、特にこの部分に建築家の注意が払われている。しかし、日本では家屋が二階建てでも階段は、目に触れる場所には滅多にない」というのです。

 

実際、海外の園では玄関ホールを広くとる園が多くあります。そして、そこでは集会が行われたり、運動遊びをしたり、保育室としても使われています。私自身が海外研修で行った時も運動遊具が置かれていることが多くありましたし、そこで遊んでいる様子をよく見ました。一方それに対して日本の園では、玄関には靴箱がおかれるだけのことが多く、玄関で保育をすることはまずありませんし、そのような使いかたをするような空間は作られていません。

 

また、このつくりはミュンヘンの宮殿と日本の城 熊本城にも見られると藤森氏は言います。「ミュンヘンの宮殿は玄関の大広間から長く廊下がつながっていて、その廊下は左右対称に延びています。そして、その廊下に面して各部屋の扉がついています。こうしたつくりはミュンヘンではスタンダードな平面構成のようです。それに対して、日本の宮殿である熊本城はどのような作りをしているのでしょうか。熊本城の本丸御殿の1階平面図が、かつて熊本城のHPに掲載されていました。それを見ると、日本の家屋同様、そこには廊下というよりは、部屋の内外をつなぎ合わせたような縁側があります。昭君乃間と大広間はふすまで区切られ、おもてなしの場所として使われたであろう茶室が、廊下ではなく部屋でつながっています。」

 

確かに、ネットの熊本城の平面図を見てみるとそれぞれの「間」と呼ばれる部屋はすべてふすまによって仕切られており、その周りを縁側が廊下としてつながっている構造になっています。そして、奥の茶室として使うであろう場所も部屋でつながっているのです。モースはこのことを「開放感のある空間」と言っていますが、まさに、空間の自由度があり、柔軟に空間を作ることができるということに関して日本家屋の作りは非常に適した作りになっているということがわかります。日本の保育室はどうでしょうか。私の園ではオープンな環境をつくり、間仕切り壁や移動式の家具によって仕切りを作っています。どちらかというと日本家屋よりですね。しかし、以前は廊下に面して各部屋があり、そこには壁があることで各部屋が隔絶されていました。どちらかというと欧米式の形態です。実際のところ、「どちらがいいのか」ということは保育の形態によって違うのでしょうが、広さを柔軟に移動できる分、今の家具や間仕切り壁があるほうが、子どもたちの遊びの流行りや新たなゾーンづくりに関して、柔軟にその広さを確保できます。そして、保育のシーンに合わせて動かすこともできるので、子どもの動きに合わせやすさを感じます。

 

また、壁があるわけでもないので、「常に他者を意識する」ことも必要になってきます。こういった意識や環境によって日本特有の「おもてなし」や「思いやり」といった道徳性というものにも大きく影響したのではないかと感じています。あまり閉鎖的な保育室を作るよりも、開放的で他者と触れ合うことや意識せざるをえない空間が「思いやり」や「道徳心」といったものにつながるのかもしれません。日本はとても共同的な意識が強い文化であると思うのです。その文化になっていくにあたってこういった日本の家屋の作りにも大きな影響を与えられてきたのではないでしょうか。