武家の教育

寺子屋は寺院教育をもとに庶民の中に広がってきた教育文化です。次に、武士についてはどうだったのでしょうか。言わずと知れた日本は「士農工商」といった身分が分けられていました。沖田氏は日本の教育文化は重層性に富んでいるといっています。それはこれまでの庶民の教育文化のなかでも、庶民の文化だけではなく、古代に確立した天皇を中心とする貴族文化の伝統も年中行事として伝えられてきました。また、貴族政権に代わって武家政権が確立し、戦国時代を経て平和の時代へと移行するに従い、武士の世界も下剋上から秩序を重んじる統治階層にふさわしいものへと変容してきました。戦国武士から、近世の封建官僚としての武士へと移行していったのです。

 

源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、それまで公家社会であった日本の社会は「弓馬の家」と称して、京都公家の世界とは異なる文化と生活習慣をもつ武家の自立をうたいました。その武家の武家たるゆえんは「戦闘者としての能力と資質」でした。当然、教育においても、作法においても「戦」を前提としたものであり、何においても、それにつながるものでした。しかし、では、学問は軽ざれたのかというとそうではないようで、頼朝は京都から大江広元(1148~1225)や三善康信(1140~1221)といった学者を招いたように、学問を否定したわけではなかったようです。それは領国経営に必要な知識を学ぶことも武家の棟梁に必要な学習であったが、何よりも一族郎党を率い、過信が命を賭けて仕えるにふさわしい見識と公正な判断力、それに人格的な素養を身につけることが要求されたからです。そして、この理想が「文武両道」という言葉になるのです。

 

この「文武両道」に類した言葉として、「右武左武」(ゆうぶさぶ)という表現も昔から使われていましたが、これももともとは「文武両道を以て天下を治める」という中国の潘炎の「君臣相遇楽賦」から伝来した観念であったようです。このように「文武両道」とは、当初は一般武士というよりは、リーダーとしての上級武士の教育観念であったというほうが性格であろうと沖田氏は言っています。

 

家柄というだけではなく、一族郎党を集めるところから求められる武家政権においては人をつなぎとめる教養が魅力となり重要視されていたのですね。最近では保育においても、リーダーシップというものが注目されてきました。このブログでも以前コーチングの本を紹介しましたが、何か目的があり、それを達成するためには自分ひとりで達成することは非常に困難です。特に人間の場合社会を通して行ういきものです。そのため、それぞれ単体の能力だけではなく、それ以上に、その能力をつなぎ合わせ、協力し大きな力に変えていく必要があり、そのためにリーダーシップという能力は非常に重要な能力になってくるのです。

 

現在の教育ではこのリーダーシップであったり、その根底となるコミュニケーションであったりというものがどうも育つような枠組みではないように思います。今回の「文武両道」の考えを見ても、目的にあげられるのは単なる教養ではなく、人をつなぎとめるためのリーダーシップであったり、教養であったりするところに視点が置かれています。つまり、人格の形成といった部分に中心がしっかりと置かれているのです。どうも今現在の教育はその本来の目的から離れているように感じます。さて、鎌倉時代から次は戦国時代に変遷されていく中でどのように武家の教育は変わってくるのでしょうか。