教科書

寺子屋で使用されていたテキストは「往来物」と呼ばれ、もともとは一対の往復書簡(特定の2人の人物の間でやり取りされた書簡を収録されたもの)を定型化してテキストに編集したもので、最古のテキストは平安時代の貴族である藤原明衡の手紙文から構成された『明衡往来』(めいごうおうらい)(『雲州消息』とも称され、十一世紀の祭礼や年中行事などをしるしたもの)があります。他にも鎌倉期になると『十二月往来』のように各月往復の手紙を24通選んで編集したものなどがあり、ここには貴族の日常的な生活習慣や年中行事などが掲載されていて、武家社会やその他の階層に貴族文化を浸透させる大きな役割を果たしました。他にも『釈氏往来』といった平安末期から鎌倉期に成立した、僧侶が宮中での役割を体得するために使われたもので、近世には朝廷仏事の知識を得るテキストや、『貴理師端往来』(きりしたんおうらい)といった日本人キリシタンの、信仰生活の心構えが書かれていたものなどがある。

 

十四世紀から十五世紀にかけて、文字学習が貴族階級から武家階級、さらに上層の農民や商人へと広がるにつれて、従来の手紙文という形式をかりながら単語の習得に配慮した『庭訓往来』が登場します。この『庭訓往来』はこれまでの貴族社会の生活や行事などから離れ、武家社会から農業、職人、商人に関わる実用的な内容が盛り込まれるようになりました。このように学習対象者は武家から庶民に拡大していくのです。この『庭訓往来』は室町時代に成立したのですが、これが江戸時代の寺子屋に用いられたということは新しい生活に密着した実用的な学習内容によるところが大きいのです。その後、江戸時代になると様々な工夫がされ、こういったテキストは単なる文字学びのテキストといった意味だけではなく、生活辞典としての機能もあわせもった形で編集されるものになってきます。

 

このように発展してきた「往来物」ですが、江戸時代には寺子屋や庶民の家庭で用いられるテキストとなり、実用性と生活重視を基本として編纂され始めます。そこでは地域性や職業又は男女別の内容を持つおびただしい往来物が出版されました。農村地帯では『農業往来』や『田舎往来』といった農地や農具の利用や穀物の栽培・耕作に関する知識や農民としての心構えといったもの。商業地域では商業に必要な用語で始まる『商売往来』や問屋の商業活動に必要な知識が書かれた『問屋往来』。漁村用には漁業に要求される文字や知識の書かれた『浜辺小児教種』や『舟方往来』。大工職には『大工註文往来』、左官職の『左官職往来』などがあり、有名どころで言うと十返舎一九による『万福百工往来』があり、度量衡に用いる道具や大工道具の用法などが書かれていました。

 

このように実に庶民の生活に密着したものであり、こういった職業のほかに地理や地誌に関するもの、たとえば日本全国の字名・村名・町名・国名といったものが書かれた『国尽』があり、有名なものと言えば滝沢馬琴の「国尽女文書」がある。他にも、江戸・京都・大坂をそれぞれ書いた『江戸往来』、『都名往来』『浪速往来』、これらはいずれも三都の諸行事や特質が庶民の目線で書かれています。また、東海道五十三次を主題として、七五調の「文字鎖」でつないだ『都路往来』などもあり、こういった往来物を基本とした多様な往来物が各地で編纂され敢行されました。庶民経済の成立と発展と共に、職業の多様化と都市間の人と物の移動が往来物の刊行を促し、各地の情報が往来物を通して学習されたのです。

 

これらを見ていると往来物というのは何も寺子屋だけではなく、庶民の中でも活用されていたのが分かります。そして、この往来物を子どもたちの生活を前提に編纂して、子どもの興味と関心を引き付けるための最大の努力と工夫をしたうえでテキストと活用し、子どもたちは自分のまわりにある社会を理解し、将来の職業について学んでいたのだと言います。

 

現在の教科書と往来物との大きな違いは庶民が「知りたいもの」または「知らせたい」内容を自分たちで編纂しているところが大きく違うと沖田氏は言います。そして、あくまで生活に根差した生活中心主義と実用主義を貫いているというのです。明治期においても「開化消息往来」や「世界国尽」といった往来物など多く編纂されたそうですが、文部省が学校教科書を検定から国定へと規制力を高めるにしたがって、無くなっていったそうです。